玉勝間 / 十四の巻 婦女の髪の制
書紀に、天武天皇十一年四月、詔曰、自今以後、男女悉結髮云云、六月丁卯、男女始結髮、仍着漆紗冠。また十三年閏四月云云、又詔曰云云、女年四十以上、髮之結不結、及乘馬縦橫、並任意也。別巫祝之類、不在結髮之例。また朱鳥元年七月、勅更男夫着脛裳、婦女垂髮于背、猶如故とある。此朱鳥元年の勅は、天皇大御病し給ひて、くさぐさの御祈リ事ありし程なれば、此女の髮の事も、神代よりの風を改め給へる事を、畏み給ひてにや有けむ。かくて又續紀に、慶雲二年十二月、令天下婦女、自非神部齋宮宮人、及老嫗、皆髻髮(語在前紀至是重制)斯くあれども、此御制つひに行はれざりしとおぼしくて、中昔にもすべて垂たりき。然るに近き代になりては、又みな醫なるは、いつの程よりの事にか有らむ。
新字:書紀に、天武天皇十一年四月、詔曰、自今以後、男女悉結髪云云、六月丁卯、男女始結髪、仍着漆紗冠。また十三年閏四月云云、又詔曰云云、女年四十以上、髪之結不結、及乗馬縦横、並任意也。別巫祝之類、不在結髪之例。また朱鳥元年七月、勅更男夫着脛裳、婦女垂髪于背、猶如故とある。此朱鳥元年の勅は、天皇大御病し給ひて、くさぐさの御祈リ事ありし程なれば、此女の髪の事も、神代よりの風を改め給へる事を、畏み給ひてにや有けむ。かくて又続紀に、慶雲二年十二月、令天下婦女、自非神部斎宮宮人、及老嫗、皆髻髪(語在前紀至是重制)斯くあれども、此御制つひに行はれざりしとおぼしくて、中昔にもすべて垂たりき。然るに近き代になりては、又みな医なるは、いつの程よりの事にか有らむ。
書き下し
書紀に、天武天皇十一年四月、詔して曰く、今より以後、男女悉く髪を結え云云、六月丁卯、男女始めて髪を結い、仍りて漆紗冠を着く。また十三年閏四月云云、又詔して曰く云云、女の年四十以上は、髪の結うと結わざると、及び馬に乗ること縦横なるとは、並びに意に任せよ。別に巫祝の類は、結髪の例に在らず。また朱鳥元年七月、勅して更に男夫は脛裳を着け、婦女は髪を背に垂るること、なお故の如くせよとある。この朱鳥元年の勅は、天皇大御病し給いて、くさぐさの御祈り事ありしほどなれば、この女の髪の事も、神代よりの風を改め給える事を、畏み給いてにや有りけむ。かくて又続紀に、慶雲二年十二月、天下の婦女をして、神部・斎宮の宮人、及び老嫗に非ざるよりは、皆髻髪せしむ(語は前紀に在り、是に至りて重ねて制す)かくあれども、この御制ついに行われざりしとおぼしくて、中昔にもすべて垂れたりき。然るに近き代になりては、又みな髻なるは、いつのほどよりの事にか有らむ。
現代語訳
『日本書紀』に、「天武天皇十一年四月、詔して言われた。『今から後は、男も女もことごとく髪を結え』(中略)。六月丁卯の日、男女が初めて髪を結い、そして漆紗冠をかぶった」。また「十三年閏四月(中略)、また詔して言われた。(中略)『女で四十歳以上の者は、髪を結うか結わないか、また馬に縦に乗るか横に乗るかは、いずれも心のままにせよ。別に巫女や祝部の類は、髪を結う定めの対象としない』」。また「朱鳥元年七月、勅して、改めて男は脛裳をはき、女は髪を背に垂らすことを、元のとおりにせよとされた」とある。この朱鳥元年の勅は、天皇がご病気になられて、さまざまなご祈祷のあった頃なので、この女の髪のことも、神代からの風習を改めなさったことを畏れ慎まれたからであろうか。こうしてまた『続日本紀』に、「慶雲二年十二月、天下の女に、神部・斎宮の宮人および老女でない限り、みな髪を結い上げさせた(その言葉は前の紀にあり、ここに至って重ねて定めた)」とある。このようにあるけれども、このご制度は結局行われなかったと思われて、中古(平安時代)にもみな髪を垂らしていた。それなのに近い世になって、またみな髪を結い上げているのは、いつ頃からのことなのであろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 髪のつと たを今の世、女の髪ゆいて、後と左右へはり出したる処を、つとと云うを、あずまにては、たおと云えり。源順の集に、わすれずもおもおゆる哉朝な朝なねし黒かみのねくたれのたわ、うつほの物語蔵開の巻に、ただおおとのごもりなば、御ぐしにたわつきなんず、金葉集恋の一に、朝寝髪たが手枕にたわつけてけさはかたみにふりこして見る、など有り。たわ、たお、同じ言なり。但し古えのは、枕にあたりたる所に、おのずから出来たるを云い、今のは、殊更につくるなり。
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『玉勝間』十一の巻 強装束衣紋男の眉をぬき鬚をはさみ歯を染る事同じ書にいわく。およそ装束の衣紋、上代は沙汰に及ばず、鳥羽院の御代より、強き装束を用うる故に、衣紋の沙汰出で来ぬるなるべし。上代は皆大装束とて、ふくさにて、強くは調えざるなり。然れども鳥羽院已前の人の影を書くとて、鳥羽院已後初まりたる、強装束の衣紋を書きたるは、絵師の不覚なり云云。およそかの御代已前は、男眉の毛を抜き、鬚をはさみ、金を付くる事一切これ無し、末代に及びて毎度矯飾の至りなり。
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『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ人の死にたる後のわざ、上つ代にはいかに有りけむ。神代に天若日子の身うせにし時、八日八夜遊ぶと有りて、楽して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知りがたし。ただし音楽して遊びし事は、なべての定まりなり。そのよしは古事記伝に云えるが如し。さて死を穢とする事は、神代より然り。されどそれも、日数のかぎりの定まりしは、後なるべし。また忌服は、から国をまねびたる、後の事なり。書紀の仁徳天皇の御巻に、素服と云う字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそ有れ、そのかみさる事有りしにあらず。仲哀天皇崩りましまして、いく程も無く、神功皇后の、重き御神わざの有りしにても、服無かりけむ事知られたり。そもそも漢国に、喪服と云う事のかぎりを、こまやかに定めたるは、ねもころなるに似たれども、なかなかに心ざし浅き、うわべの事なり。親などにおくれたらん悲しさは、その月のその頃までと、きわやかにかぎりの有るべきわざには有らざるに、しいてかぎりをたてて、きわやかに定めたるは、かの国のなべてのくせにて、云いもてゆけば、人にいつわりを教うるわざなり。
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『神皇正統記』巻三 第四十代 天武天皇第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましましき。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。
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『玉勝間』十三の巻 諸国小社の祢宜祝の事貞観十年六月廿八日の格に、天長二年十二月甲子の符に偁く、承前の例、諸国の小社、或いは祝を置きて禰宜無く、或いは禰宜祝並べ置く、旧例紛謬し、准拠定まる無し。加之或る国は独り女祝を置きて、永くその祭を主らしむ。右大臣宣旨す、今より以後、禰宜祝並べ置く社は、女を以て禰宜と為せ。但し先に置く者は、その身を終えしめよ者また三代実録に、貞観七年五月廿五日、是の日制す。五畿七道の諸神社の祝部、白丁を補するを停む。八位已上、及び年六十已上の人を以てこれに充てよ。先に是れ置く者は、その身を終えしめ、今より以後、立てて恒例と為せ。
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『玉勝間』六の巻 持仏堂天武天皇の御代、十四年三月二十七日のみことのりに、諸国の家毎に仏舎を作り、乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよと有り、書紀に見えたり。民の家々まで、持仏堂と云う物をかまえて仏をまつる事は、これよりや始まりけん。
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