玉勝間 / 十四の巻 風土記のおこり
續紀に、和銅六年五月甲子、畿內七道諸國郡〓名、着好字、其郡內所生、銀銅彩色、草木禽獸虫魚等物、具錄色目、及土地沃埼、山川原野名號所由、又古老相傳舊聞異事、載于史籍言上とある。これ國國風土記のおこりなり。畿ノ字の上に詔ノ字脫たるか。
新字:続紀に、和銅六年五月甲子、畿内七道諸国郡〓名、着好字、其郡内所生、銀銅彩色、草木禽獣虫魚等物、具録色目、及土地沃埼、山川原野名号所由、又古老相伝旧聞異事、載于史籍言上とある。これ国国風土記のおこりなり。畿ノ字の上に詔ノ字脱たるか。
書き下し
続紀に、和銅六年五月甲子、畿内七道諸国郡郷の名、好き字を着け、その郡内に生ずる所の、銀銅彩色、草木禽獣虫魚等の物、具さに色目を録し、及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老の相伝うる旧聞異事、史籍に載せて言上せよとある。これ国々の風土記のおこりなり。畿の字の上に詔の字脱けたるか。
現代語訳
『続日本紀』に、「和銅六年五月甲子の日、畿内・七道の諸国の郡・郷の名には好い字を付け、その郡内に産する銀・銅・彩色の顔料、草木・鳥獣・虫魚などの物は、詳しく品目を記録し、また土地の肥えているか痩せているか、山・川・原・野の名の由来、また古老が語り伝える昔の話や珍しい出来事を書物に載せて申し上げよ」とある。これが国々の風土記の起こりである。「畿」の字の上に「詔」の字が抜け落ちたのであろうか。
解説
和銅六年(七一三年)に諸国へ出された命令が、各国の『風土記』編纂の始まりであることを示した段である。郡や郷の名に好字を付けること、産物、土地の肥え具合、地名の由来、古老の伝える旧聞を記して提出することが命じられた。今日まとまって伝わるのは『出雲国風土記』ほか五か国のものだけだが、地名の起源伝承や土地の神々の話を豊かに含み、古事記・日本書紀と並ぶ古代研究の資料である。末尾で、文の頭に「詔」の字が抜けているのではないかと疑うのは、本文を丁寧に読む校訂者の目である。国じゅうの土地と言い伝えを記録させたこの命令は、国の成り立ちを言葉で確かめようとする試みでもあった。
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『玉勝間』十四の巻 諸国郡の図同じく紀に、同じく十年八月、天下の諸国をして、国郡の図を造りて進らしむ、
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文自去豆乃は、去豆は地の名なり、楯縫の郡に、許豆の社、許豆島、許豆浜など見えて、出雲と楯縫と二郡の堺なりと有り。乃は誤字なるべし。その字いまだ考え得ず。打絶而は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)堺をなして、限るを云う。八穂米は米の字は尒を誤れるなるべし。八百土にて、杵築の枕詞なり。支豆支乃御埼は、分けては今の世に日之御崎と云う処なれども、ここは楯縫の郡の堺までの地を、広く云えるなり。されば杵築の東の方までわたれる山をも、御崎山と云えり。加志は、和名抄の舟の具に、唐韻に云う、状舸は、舟を繋ぐ所以なり、漢語抄に云う、加之、と有る物にて、前漢書の地理志には、牂牁と書きて、註に、船を係ぐ代なりと有り。万葉の歌にも見えたり。かくてここに云えるは、縫い合わせたる国を、また離れゆかざらむために、繋ぎ堅め給えりし状舸なり。佐比売山は、飯石の郡に見ゆ。持引綱はかの国を、挽き来ませる綱なり。薗之長浜は、神門の郡に、即ち水海と大海との間に山有り、長さ廿二里云々、此は意美豆努命の、国引きましし時の綱なり、今俗人号けて薗の松山と云う云々、と見えたり。
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