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玉勝間 / 十四の巻 書紀ノ欽明天皇の御巻の事

書紀の欽明天皇ノ御卷、二年五の葉に、夏四月安羅云云、と云ふ所より、五年十九のひらの、可不深思而熟計歟、と云ふまでのあひだは、唯だ百濟王が、任那國をおこし建むと云ふさだをのみ、其詞どもまで、つぶさに記して、他事とては、いささかも無く、すべて十五張が程、何のようも無き徒らごとなり。斯かる事を、くだくだしくいと長長と記されたるは、いかなる心ぞや、件の十五ひらの間に、九のひらに、秋七月百濟云云と云ふより、十の葉の、豈足云乎と云ふまで、半張餘のみは、記さるべき事にて、これをおきて餘は、みな去ても可かるべし。おのれこの御卷を讀むごとに、此所のいとうるさく、物うく覺ゆるなり。人はいかに思ふらむ、聞かまほし。

新字:書紀の欽明天皇ノ御巻、二年五の葉に、夏四月安羅云云、と云ふ所より、五年十九のひらの、可不深思而熟計歟、と云ふまでのあひだは、唯だ百済王が、任那国をおこし建むと云ふさだをのみ、其詞どもまで、つぶさに記して、他事とては、いささかも無く、すべて十五張が程、何のようも無き徒らごとなり。斯かる事を、くだくだしくいと長長と記されたるは、いかなる心ぞや、件の十五ひらの間に、九のひらに、秋七月百済云云と云ふより、十の葉の、豈足云乎と云ふまで、半張余のみは、記さるべき事にて、これをおきて余は、みな去ても可かるべし。おのれこの御巻を読むごとに、此所のいとうるさく、物うく覚ゆるなり。人はいかに思ふらむ、聞かまほし。

書き下し

書紀の欽明天皇の御巻、二年五の葉に、夏四月安羅云云、と云う所より、五年十九のひらの、深く思いて熟計らざるべけんや、と云うまでのあいだは、ただ百済王が、任那国をおこし建てむと云う沙汰をのみ、その詞どもまで、つぶさに記して、他事とては、いささかも無く、すべて十五張が程、何のようも無き徒らごとなり。かかる事を、くだくだしくいと長々と記されたるは、いかなる心ぞや、件の十五ひらの間に、九のひらに、秋七月百済云云と云うより、十の葉の、あに云うに足らんやと云うまで、半張余りのみは、記さるべき事にて、これをおきて余は、みな去りても可かるべし。おのれこの御巻を読むごとに、ここのいとうるさく、物うく覚ゆるなり。人はいかに思うらむ、聞かまほし。

現代語訳

『日本書紀』の欽明天皇の巻で、二年の五枚目の「夏四月、安羅(中略)」というところから、五年の十九枚目の「深く思って熟慮しないでよいものか」というところまでの間は、ただ百済王が任那国を再興しようという談議ばかりを、その言葉のやりとりまで詳しく記して、ほかのことはまったくなく、全部で十五枚ほどが、何の役にも立たない無駄な記事である。こうしたことを、くどくどととても長々と記されたのは、どういうつもりなのか。その十五枚のうち、九枚目の「秋七月、百済(中略)」というところから、十枚目の「どうして言うに足りようか」というところまでの半枚余りだけは記すべきことで、これを除いて残りはみな削っても構わないであろう。私はこの巻を読むたびに、ここがたいそうわずらわしく、うんざりするのである。人はどう思うだろうか、聞いてみたいものだ。

解説

『日本書紀』の欽明天皇の巻で、百済の聖明王が任那の再興をめぐって重ねた会議や上表の文が、十五丁にもわたって延々と載せられていることへの率直な不満である。宣長は、記すに値するのはそのうち半丁ほどで、残りは削ってもよいとまで言い、読むたびにうんざりすると打ち明ける。『古事記伝』を書き、古典を神聖視しているようにも見える宣長が、書紀の編纂のあり方には遠慮なく注文をつけている。宣長にとって『日本書紀』は漢文で飾られた書であり、『古事記』ほど古意を伝えないという評価もこの率直さの背景にある。尊ぶべき古典にも読みにくい所はあり、そう感じたことを正直に言って他人の意見を聞こうとする態度は、読書の健全さでもある。

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