玉勝間 / 八の巻 筑前国続風土記
筑前ノ國續風土記と云ふ物あり、貝原ノ篤信が著せるふみにて、かの國內の事どもを、委しく記るしたり。おのれ其のうち僅かに、六、七、八、十五、十六と、五卷を見たり。其ノ餘はいまだえ見ず。十五、十六の二まきは、宗像ノ郡の事を記るして、十五の卷は、四十四五ひら有る、もはら宗像、三前の御社の事を記るせり。此一まきは、寫し置きたり。六七八の三卷は、御笠ノ郡なり。そもそもこの貝原の翁は、名高き儒者にて、ここらの書どもをあらはして、皆世に弘まれるを、此風土記はしも、中に大きなる書なるに、いまだ世に知る人稀れにして、おのれも、近き頃始めて知れる、いとめづらかに覺えて、かき出たり。
新字:筑前ノ国続風土記と云ふ物あり、貝原ノ篤信が著せるふみにて、かの国内の事どもを、委しく記るしたり。おのれ其のうち僅かに、六、七、八、十五、十六と、五巻を見たり。其ノ余はいまだえ見ず。十五、十六の二まきは、宗像ノ郡の事を記るして、十五の巻は、四十四五ひら有る、もはら宗像、三前の御社の事を記るせり。此一まきは、写し置きたり。六七八の三巻は、御笠ノ郡なり。そもそもこの貝原の翁は、名高き儒者にて、ここらの書どもをあらはして、皆世に弘まれるを、此風土記はしも、中に大きなる書なるに、いまだ世に知る人稀れにして、おのれも、近き頃始めて知れる、いとめづらかに覚えて、かき出たり。
書き下し
筑前の国続風土記と云う物あり、貝原の篤信が著せるふみにて、かの国内の事どもを、委しく記るしたり。おのれ其のうち僅かに、六、七、八、十五、十六と、五巻を見たり。其の余はいまだえ見ず。十五、十六の二まきは、宗像の郡の事を記るして、十五の巻は、四十四五ひら有る、もはら宗像、三前の御社の事を記るせり。此一まきは、写し置きたり。六七八の三巻は、御笠の郡なり。そもそもこの貝原の翁は、名高き儒者にて、ここらの書どもをあらわして、皆世に弘まれるを、此風土記はしも、中に大きなる書なるに、いまだ世に知る人稀れにして、おのれも、近き頃始めて知れる、いとめずらかに覚えて、かき出たり。
現代語訳
筑前国続風土記というものがある。貝原篤信(益軒)が著した書物で、その国の内の事柄を詳しく記している。私はそのうちわずかに六・七・八・十五・十六と五巻を見た。そのほかはまだ見ることができない。十五・十六の二巻は宗像郡のことを記していて、十五の巻は四十四、五枚あり、もっぱら宗像の三前(みまえ)の御社のことを記している。この一巻は写しておいた。六・七・八の三巻は御笠郡である。そもそもこの貝原の翁は名高い儒者で、多くの書物を著し、みな世に広まっているが、この風土記は、その中でも大きな書物であるのに、まだ世に知る人がまれで、私も近ごろ初めて知り、たいそう珍しく思われたので書き出したのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 古書どもの事かくて風土記も、今の世にもかれこれと有るは、はじめの奈良の御代のには有らず、やや後の物にて、そのさま古きとはいたくかわりて、大かたおかしからぬものなり。その中に、豊後国のは、奈良のなれど、ただいささかのこりて、全からず。そもそも斯くはじめの善きは絶えて、後の悪ろきがのこれるは、いかなるゆえにかと思うに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、古くてからめかぬをば好まず、後のいささかもからざまに近きをよろこべる故なるべし。神代の巻も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、ようぜぬをもてなずらえ知るべし。さて然かもとの風土記はみな絶えぬる中に、国はしも多かるに、出雲ののこれる事は、まがことの中のいみしきさきわいなり。また日本紀はもとより絶ゆまじきことわりなるを、古事記・万葉集のたまたまに絶えで残れるは、殊にいみしき後の世のさきわいなり。大かた今の世にして、古のすがたを知る事は、もはらこの二ふみのみたまになむ有りける。
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『玉勝間』九の巻 対馬の式社そもそも式社は、国のやむことなき神たちなるに、いずれの国も、今の世には、定かならざるが多く、絶え給えるさえ多きは、万よりも憂わしきわざなるを、さる片ほとりの島国にしも、上の件のごとく全く皆たしかにて坐すことは、いとも珍らしく、有りがたく覚ゆるままに、殊にかくしるせるなり。思うにかの島などは、遥かに海中に、離れたる所なれば、かえりて国の乱れさわぎたりし世なども、おさおさ有らざりけむゆえに、古えのさまの、いたくは変わらぬにや有らむ。とまれかくまれ、いと尊きことにぞ有りける。
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『玉勝間』十四の巻 風土記のおこり続紀に、和銅六年五月甲子、畿内七道諸国郡郷の名、好き字を着け、その郡内に生ずる所の、銀銅彩色、草木禽獣虫魚等の物、具さに色目を録し、及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老の相伝うる旧聞異事、史籍に載せて言上せよとある。これ国々の風土記のおこりなり。畿の字の上に詔の字脱けたるか。
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『玉勝間』一の巻 古書どもの事古きふみどもの、世にたえてつたわらぬは、万よりもくち惜しく歎かわしきわざなり。釈日本紀、仙覚が万葉の抄などを見るに、そのほどまでは、国々の風土記も大かたそなわりて、伝われりと見えたり。釈に引きたる上宮記と云う物は、いささかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きわふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有りけむ。また風土記は、いとたふとき物なるに、今はただ出雲一国ののみ、またくては残りて、ほかはみな絶えぬるは、かえすがえすもくち惜し。さるは応仁よりこなた、打ち続きたるみやこの乱れに、ふるき書どもも、みな焼けうせ、あるいは散りぼい失せぬるなるべし。そも今の世のごと、国々にも学問するともがら多く、書どもようじ持たる者おおからましかば、むげに絶えはつる事はあらじを、そのかみはいまだいなかには、学問するともがらもいといと稀れにして、京ならでは、おさおさ書どもも、無かりしが故なめり。されどから国のふるき書どもはしも、これかれといなかにも残れるが有るは、むねとからを好むよのならいなるが故なり。
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『玉勝間』九の巻 対馬の式社都都智の神社は、佐須の郷久根村にあり、神階従五位下、今は矢立神山と申す。銀山の神社は、同郷樫根村に有り、神階従五位下、今は六所大明神と申す。上の件十三社は、下つ県の郡なり。然るに豆酸の郷、和名抄に上つ県の郡に有り、佐須の郷・与良の郷は、同抄に見えざれども、賀志郷・鶏知の郷ありて、これ又ともに上つ県の郡に見えたり。然れば式と和名抄と、郡の上下あいかわれり。今も和名抄のごとくにて、初めの十六社は、みな下つ県、後の十三社は、みな上の県の郡なり、とぞ。いつの世に、いかなる由にて、さはかわりぬらむ。さて右の神社どもの中に、多久頭多麻の神社、式には、下なる多の字無し。又多久頭魂の神社、式には魂の字無し。郷名のうちの、豆酸の酸の字、めづらしければ、もし酸を誤れるにはあらざるかと思いしに、字書を見れば、酸の字音頭なり。この郷を、朝鮮国の海東諸国記と云う物には、豆豆郡としるせり。さてこの対馬の式社の事も、小篠の御野が、彼の島にあい知れる人の有るが許に、問いにやりしに、書きつけておこせしとて、ここにも書きつけて見せにおこせたりしを、しるせるなり。
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『玉勝間』一の巻 三社の託宣といふ物同記に曰く、文亀二年二月十日、侍従二位(兼倶卿)所望の三社託宣、并びに天神の名号、云々。以上今日之を書きて之を遣わす、また、同十七日、三社託宣一幅、兼永朝臣の所望にて之を書く。
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