玉勝間 / 九の巻 書紀の本書一書の事
書紀神代ノ卷の段段に、同じ事の異あるを、別に一書曰とて、いくつも擧られたるは、そのかみ古き傳、の書どもあまた有りしを、此れをも彼れをも、遺されざるにて、そは論無く、よろしきを、本書はしも、ここに一つの古書に、とほして由られたるには有らずして、あまたが中に、いささかにても、漢意に近く、ことよれる限りを、撰者の心もて、これかれを擇り出で、とり集めて、書きつづけられたる物と見えて、始めをはりとほらざる事ども有り。まづ天照大御神の大御名、はじめには、唯だ號大日孁貴とのみ記して、亦名天照大神など云ふ事も無きに、次の段よりは天照大神と記されたるは、これ初メと後と違ひたり。天照大神と申すは、一書にしるせる御名にして、本書にもはじめには、ただ一書曰天照大神と、注に記されたれば、異なる傳へにこそ有れ。然るに次にいたりて、俄に其御名をしも擧られたるは、是れかの大日孁貴の御事なりとは、何をもて知らむ。天照大神と申すは、その初めいかなる神とも知られざるが如し。
新字:書紀神代ノ巻の段段に、同じ事の異あるを、別に一書曰とて、いくつも挙られたるは、そのかみ古き伝、の書どもあまた有りしを、此れをも彼れをも、遺されざるにて、そは論無く、よろしきを、本書はしも、ここに一つの古書に、とほして由られたるには有らずして、あまたが中に、いささかにても、漢意に近く、ことよれる限りを、撰者の心もて、これかれを択り出で、とり集めて、書きつづけられたる物と見えて、始めをはりとほらざる事ども有り。まづ天照大御神の大御名、はじめには、唯だ号大日孁貴とのみ記して、亦名天照大神など云ふ事も無きに、次の段よりは天照大神と記されたるは、これ初メと後と違ひたり。天照大神と申すは、一書にしるせる御名にして、本書にもはじめには、ただ一書曰天照大神と、注に記されたれば、異なる伝へにこそ有れ。然るに次にいたりて、俄に其御名をしも挙られたるは、是れかの大日孁貴の御事なりとは、何をもて知らむ。天照大神と申すは、その初めいかなる神とも知られざるが如し。
書き下し
書紀神代の巻の段々に、同じ事の異あるを、別に一書に曰くとて、いくつも挙げられたるは、そのかみ古き伝えの書どもあまた有りしを、此れをも彼れをも、遺されざるにて、そは論無く、よろしきを、本書はしも、ここに一つの古書に、とおして由られたるには有らずして、あまたが中に、いささかにても、漢意に近く、ことよれる限りを、撰者の心もて、これかれを択り出で、とり集めて、書きつづけられたる物と見えて、始めおわりとおらざる事ども有り。まず天照大御神の大御名、はじめには、ただ大日孁貴と号すとのみ記して、亦の名天照大神など云う事も無きに、次の段よりは天照大神と記されたるは、これ初めと後と違いたり。天照大神と申すは、一書にしるせる御名にして、本書にもはじめには、ただ一書に曰く天照大神と、注に記されたれば、異なる伝えにこそ有れ。然るに次にいたりて、俄かにその御名をしも挙げられたるは、これかの大日孁貴の御事なりとは、何をもて知らむ。天照大神と申すは、その初めいかなる神とも知られざるがごとし。
現代語訳
『日本書紀』神代の巻の各段で、同じ事について異なる伝えがあるのを、別に「一書に曰く」として幾つも挙げておられるのは、その当時、古い伝えの書物が多くあったのを、これもあれも捨てずに残されたのであって、それは言うまでもなくよいことだが、本文の方は、一つの古書に一貫して拠られたものではなく、多くの中から、少しでも漢意に近く、そちらに寄っているものだけを、撰者の考えであれこれと選び出し、取り集めて書き続けられたものと見えて、初めと終わりが通らないことがある。まず天照大御神の御名は、初めにはただ「大日孁貴と号す」とだけ記して、「またの名を天照大神」などと言うこともないのに、次の段からは「天照大神」と記されているのは、初めと後とが食い違っている。天照大神と申すのは一書に記された御名であって、本文でも初めには、ただ「一書に曰く、天照大神」と注に記されているのだから、異なる伝えなのである。それなのに次に至って、にわかにその御名を挙げられたのは、これがあの大日孁貴のことであるとは、何によって知ることができようか。天照大神と申すのは、その初めがどういう神とも知られないかのようである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 書紀の本書一書の事又月読命は、その光彩日に亜ぐ云云としるされ、一書に、その御名のミコトに、尊の字を書かれたるばかり、尊き神にましますを、ただ月の神を生むとのみ有りて、御名の無きはいかにぞや。又高御産巣日の神は、世のはじめに成り坐して、最も尊き天つ神にましまして、御名にも尊の字を書かれ、神武天皇も、御みずから顕斎し給いて、道の臣の命を斎主として、殊に祭らせ給うばかりの神にましますに、天地のはじめの段にただ一書にのみ、その初めをば記されて、本書には、下巻に至りてはじめて、俄かにふと御名を書き出だされて、皇祖とも記して、皇孫の命を、葦原の中つ国に天降し奉り給う事も、みなこの神の詔命し給えるは、これ又初めと後と違えるがごとし。この事は、県居の大人も心得ぬ事に云われたり。まことに他の神たちのごとく、末にいたりて、ゆくりなく俄かに、云い出づべき神にはましまさず。成り出で坐しし始めを、必ずたしかに記さるべきわざなるをや。大かたこれらのたぐいの事ども、撰者の心もて、取りも捨てもせられし程に、本書は、中々にととのわぬ事どものあるなんめり。
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『玉勝間』一の巻 わたくしに記せる史世におおやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれと多かるを、昔の皇国人は、仏を尊ばぬは一人も無かりしかば、斯かる書にさえ、ともすればようなき仏ざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたわらいたき事多し。またさかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいといて、多くは神武天皇より始めてしるして、神代の程をばはぶけるは、から国のむねむねしき書に、さるたぐいの有るを、善き事と思いて、ならえる物なり。そもそも外国々は、その王のすじ、定まれる事無くして、世々に変われば、心にまかせて、いづれの代より記さむも難無きを、御国の皇統は、さらに外国の王のたぐいにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地と共に、とこしえに伝わらせ給うを、その本の始めをはぶき捨てて、なからより記して善からめや。万づをから国にならうも、事によりては、心すべきわざぞかし。
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『玉勝間』九の巻 八百万ノ神と云ふを書紀に八十万ノ神と記されたる事もろもろの神たちを、すべて云うには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにも、皆、八百万の神と云えるぞ常なるに、ただ書紀にのみは、いずこにもいずこにも、八十万の神とのみ有りて、八百万神とある所は見えず。こはいかさまにも、撰者の心あることと見えたり。神の御名に、日高と申すをも、彼の紀には、皆かえて、彦としるされたるは、当代の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、この八十万の神は、いかなる由にか有らむ、いまだ思いえず。さてかようの類いも、神の御名の文字なども、何も後の世の書どもは、おおかた書紀にのみ由れるを、たまたまこの称は書紀に由らず、今の世にいたるまでも、八百万の神とのみ云いならえるは、めづらし。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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うひ山ぶみ・注[チ]道をしらんためには、殊に古事記をさき多くいろは仮字をのみ用ひたるから、かゝる名目も有也、書紀をよむには大に心得あり云々、書紀は、朝廷の正史と立られて、御世々々万の事これによらせ給ひ、世々の学者も、これをむねと学ぶこと也、まことに古事記は、しるしざまは、いとめでたく尊けれども、神武天皇よりこなたの、御代々々の事をしるされたる、甚あらくすくなくして、広からず、審ならざるを、此紀は、広く詳にしるされたるほど、たぐひなく、いともたふとき御典也、此御典なくては、上古の事どもを、ひろく知べきよしなし、然はあれども、すべて漢文の潤色多ければ、これをよむに、はじめよりその心得なくてはあるべからず、然るを世間の神学者、此わきまへなくして、ただ文のまゝにこゝろえ、返て漢文の潤色の所を、よろこび尊みて、殊に心を用るほどに、すべての解し様、ことごとく漢流の理窟にして、いたく古ヘの意にたがへり、これらの事、大抵は古事記伝の首巻にしるせり、猶又別に、神代紀のうずの山蔭といふ物を書ていへり、ひらき見るべし、六国史といふ云々、六国史のうち日本後紀は、
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『玉勝間』一の巻 また書紀の今の本は、もじの誤りもところどころ有り。また訓も、古言ながら、多くは今の京になりての云いざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいと古くめづらかにたふとき事もまじれるを、その訓おおくは全からず。あるいはなかば欠け、あるいはもじあやまりなど、すべてうるわしからず、しどけなきは、いといとくち惜しきわざなり。板本一つならでは世に無く、古き写し本はたいと稀なれば、これかれをくらべ見て、直すべき便りも無く、すべて今これをきよらにうるわしく、改め直さむ事は、いといとかたきわざなり。今の世の物知り人、おのれ古のこころ詞をうまらに明らめ得たりと思いがおなるも、なおひがことのみ多かれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこないぞ多かるべき。されば今これをえり改めむとならば、文字の誤りをのみただして、訓をば、暫らくもとのままにて有らむかたぞ、まさりぬべき。
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