玉勝間 / 十四の巻 南殿
續紀に、天平八年春正月丁酉、天皇宴群臣於南殿。また同廿年春正月戊寅、天皇御南殿、宴五位以上とある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名けられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢やうの名は、奈良ノ宮までは見えたる事無し。唯だ大安殿小安殿内安殿外安殿など云ふ名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢やうの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
新字:続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇宴群臣於南殿。また同廿年春正月戊寅、天皇御南殿、宴五位以上とある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名けられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢やうの名は、奈良ノ宮までは見えたる事無し。唯だ大安殿小安殿内安殿外安殿など云ふ名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢やうの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
書き下し
続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
現代語訳
『続日本紀』に、「天平八年春正月丁酉の日、天皇は群臣を南殿で宴された」、また「同二十年春正月戊寅の日、天皇は南殿にお出ましになり、五位以上の者を宴された」とある。この南殿は、後の世のように紫宸殿の別名であろうか。それとも、もとの名は南殿であったのを、後に紫宸殿と名づけられたのであろうか。おおよそ宮殿や門の名は、大極殿と朱雀門を除いては、中国風の名は奈良の宮までは見えることがない。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿などという名ばかりが多く見えるので、さまざまな宮殿や門の中国風の名は、今の京(平安京)になってから初めて付けられたのであろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 左右京朱雀ノ路朱雀門大極殿瓦ぶき京都を、左京右京と分けらるること、藤原の宮既に然りと見えて、大宝にいできたる令に、左右京職あり、続紀大宝三年の処にも、左京職云云の事見えたり。又和銅三年正月の処に、皇城門の外朱雀路と見えたり。これいまだ平城にうつり坐さぬさきなり。朱雀門は、既に孝徳天皇の、大化五年の紀に見えたり。又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり。但しそれは当時はただ大やすみ殿と云いて、いまだ大極殿と云う名は無かりしを、後の名をめぐらして記されたるも知りがたし。又斉明天皇の元年の紀に、小墾田に於て宮闕を造り起こし、将に瓦もて覆わんと擬とあるは、ただ沙汰ばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これ始めなるべし。又五位以上及び庶人の屋舎の瓦葺の沙汰も、神亀元年の紀に見えたり。
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『玉勝間』一の巻 大安殿大極殿は、第一の正殿なるが故に、おおやすみどのと云えるを、やがて大安殿とも書かれたるなり。続紀に、大極殿と大安殿とは、別なるが如く聞こゆる所も有れど然らず、同じ事なり。
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『玉勝間』十三の巻 応天門朱雀門羅城門の名の事同紀に、貞観十三年十月、応天門火災の後、修復既に訖る、明経文章等の博士をして、議せしむ応天門名を改むべきか、又応天門と名づくる、その義何に拠るか又朱雀羅城等の門、名義如何。従五位上行大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議して言う、宮殿城門等、火災の後、更にその名を改むること、両漢以上、未だ必ずしもこの事有らず。但し魏の明帝青龍二年云云、唐の玄宗天宝二年、東京の応天門災あり云云、十一月応天門成り、改めて乾天門と曰う。本朝の制度、多く唐家に擬す云云、その旧号を除き、更に嘉名を制す、また宜しからずや。又洛都の宮城門、是れ応天門と謂う。案ずるに礼含文嘉に曰く、湯人心に順い、天に応ず、然れば則ち応天の名、蓋し諸を此に取るか。又長安の南面の皇城門、是れ朱雀門と謂う、云云、然れば則ちその南方に在るを以ての故に、これを朱雀と謂うか。又羅城門と称するは、是れ周の国門云云、その義未だ詳らかならず。但し大唐六典の注に云う、大明宮より、東の羅城を夾む復道云云、蓋しこれ羅列の意か。従五位上行大学博士兼越前権介菅野朝臣佐世云云等議して言う、云云、即ち雉魯の天災すら、猶名を改めず今この応天門、既に是れ人火なり、旧に仍りてこれを謂う、何ぞ必ずしも更に改めん。但し名づけて応天朱雀羅城と曰うの義、経典に先ず見ゆることを為す。この文、はじめのほど、印本には脱けたり。今は一つの写本に依りて引けり。このところ印本は、二ひら脱けたるなり。
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『玉勝間』一の巻 大安殿天武紀に、天皇、大安殿に御す云々と云える事、所々に見え、続紀にも多く見えたり。大安殿は、意富夜須美杼能と訓むべし、すなわち大極殿の事なり。また天智紀に、西の安殿、天武紀に、向の安殿、内の安殿、外の安殿、旧宮の安殿、文武紀に、東の安殿なども有る、皆やすみどのなり。やすみは、古き歌に、やすみししわが大きみと詠みて、これ安らけくて天の下を見し給う意。見し給うとは、しろしめす事なり。されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せるなり、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇徳天皇の御陵に参りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給いて、百官にいつかれさせ給い云々と云えるは、たまたま古言の残れりしなるべし。さて皇極紀・天武紀に、大極殿を、おおあむどのと訓み、天智紀に、西小殿と有るを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の内安殿を、うちのあむどのと訓めるなどは、何れもやすみどのと訓ましめむために、傍らに安ドノと書きたるを見て、誤りて安を音に訓めるひが事なり。またかたわらに晏の字を書ける所も有る、これもかの安を音に訓む事とひが心得して、あむと訓ましめむとてなり。
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『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘歴代編年集成に云う、南殿の桜樹は、本これ梅樹なり。桓武天皇遷都の時、植えらるる所なり。而るに承和年中に及びて枯れ失す。仍りて仁明天皇改め植えらるるなり。今度の焼亡に焼失し畢んぬ。内裏を造るの時、李部王(重明親王)の家の桜樹を移さるる所なり。件の樹は、本吉野山の桜と云云。但し拾遺の公忠朝臣の歌の詞に、延喜の御時、南殿の花を見ると云云。然れば天徳以前も桜樹か。梅桜の事、時にこれを決すべし。橘の樹は、本より生い託する所なり。遷都以前、この地は橘大夫の家の跡なりと云云。南殿の樹の事、番記録に云う、村上の御宇、天徳三年十二月七日、南殿の坤の角に、新たに橘の樹一本を移し栽う(高さ一丈二尺)。件の樹は、弾正尹親王の東三条の家の樹なり。勅定に依りてこれを奉る。右近将監已下これを掘る。或る記に云う、かの樹の在所は、橘大夫と称する者の家の後園なり。遷都の時、件の後園に橘有り、即ち南殿の前、以て賞翫す。その後回禄の後、かの東三条の樹を栽えらると云云。小一条左大臣の記に云う、橘の本主は、秦保国なり、と見えたり。今度焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のことなり。大槐秘抄に云わく、南殿の橘の木は、この京に、いまだ内裏たてられ候わざりけるさき、人の家の候いけるが木にて候いければ、きられずしてなん候いける。殿上人は、南殿のおおゆかにて、枝ながらたちばな食いなどしけりと申し候うは、それはまことにや候いけん。木は一定のふる木になんさぶらいける。ついでに、同書に云わく、今の上達部は、封戸すこしも得候わず。
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『玉勝間』九の巻 正堂正寝百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿殿上に於て定め申す、諸道勘え申すと云云、正堂・正寝、何物を指すやの事、正堂は大極殿、正寝は小安殿の由、師安勘え申す、而るに内大臣、正堂は大極殿なり、正寝は小安殿の条、所見無きの由申さる。
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