玉勝間 / 十三の巻 遍照僧正七十ノ賀の宴を給へる事
同紀に、仁和元年十二月十八日延僧正法印大和尙位遍照於仁壽殿申曲宴、遍照今年始滿七十天皇慶賀徹夜談賞。太政大臣左右大臣預席焉。
新字:同紀に、仁和元年十二月十八日延僧正法印大和尚位遍照於仁寿殿申曲宴、遍照今年始満七十天皇慶賀徹夜談賞。太政大臣左右大臣預席焉。
書き下し
同紀に、仁和元年十二月十八日僧正法印大和尚位遍照を仁寿殿に延きて曲宴を申す、遍照今年始めて七十に満つ天皇慶賀して夜を徹して談賞す。太政大臣左右大臣席に預かる。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「仁和元年十二月十八日、僧正法印大和尚位遍照を仁寿殿に招いて内々の宴を催された。遍照は今年初めて七十歳に達したので、天皇(光孝天皇)はこれを祝って、夜を徹して語り合い称えられた。太政大臣と左右の大臣も席に加わった」とある。
解説
六歌仙の一人として知られる僧正遍照の七十歳の祝いの宴を、光孝天皇が宮中で催したという記事で、十三の巻を締めくくる段である。遍照は俗名を良岑宗貞といい、仁明天皇に仕えたが、天皇の崩御を機に出家した。光孝天皇は若いころから遍照と親しく、その長寿を祝って夜通し語り合ったという。太政大臣や左右大臣までが席に連なったことから、遍照が朝廷でいかに重んじられていたかがうかがえる。前に取り上げた嵯峨天皇の四十の賀と同じく、算賀の古い例である。宣長は論評を加えていないが、歌人の生涯の一場面を正史で確かめる記録として採ったのであろう。年を重ねた友を天皇自ら祝う温かさが、短い記事から伝わってくる。
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 光孝天皇の御世より歌の道又おこれる事同じ紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝紫宸殿に御し、宴を侍臣に賜う。左右近衛府遞いに音楽を奏し、日暮れて和琴を奏し和歌を作る、群臣具に酔い、歓を極めて罷む、禄を賜うこと各差有り。また同じ二年十月丙午朔、日これを蝕する有り。二日丁未、天皇紫宸殿に御し宴を侍臣に賜う。親王・太政大臣、及び参議已上、並びに殿の座に侍し、六府番上の簿を庭に奏し、左右近衛府、遞いに音楽を奏す。酣暢の後、参議右衛門督藤原朝臣諸葛に勅命して、和琴を弾かしめ、王公並びに歌を作り、天皇自ら歌いたまい、宴楽景を畢う。と見えたり。そもそも嵯峨の天皇もはらから詩をのみ好ませ給いしより、かかる御宴のおりなども、ただ詩をのみ作られて、歌のことは、絶えて聞えざりしに、光孝天皇の御世より、またかく歌を好ませ給いて、詩のかたは、衰えそめにたりき。
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