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玉勝間 / 十二の巻 光孝天皇の御世より歌の道又おこれる事

同紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝御紫宸殿、賜宴侍臣。左右近衛府遞奏音樂、日暮奏和琴作和歌群臣具醉、極歡而罷、賜祿各有差。また同二年十月丙午朔、日有蝕之。二日丁未、天皇御紫宸殿賜宴侍臣。親王太政大臣、及參議已上、並侍殿座、六府奏番上簿於庭、左右近衛府、遞奏音樂。醋暢之後、勅命參議右衛門督藤原朝臣諸葛、彈和琴、王公並作歌、天皇自歌、宴樂畢景。と見えたり。そもそも嵯峨ノ天皇もはらから詩をのみ好ませ給ひしより、かかる御宴のをりなども、只詩をのみ作られて、歌のことは、絕て聞えざりしに、光孝天皇の御世より、又かく歌を好ませ給ひて、詩のかたは、衰ろへそめにたりき。

新字:同紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝御紫宸殿、賜宴侍臣。左右近衛府逓奏音楽、日暮奏和琴作和歌群臣具酔、極歓而罷、賜禄各有差。また同二年十月丙午朔、日有蝕之。二日丁未、天皇御紫宸殿賜宴侍臣。親王太政大臣、及参議已上、並侍殿座、六府奏番上簿於庭、左右近衛府、逓奏音楽。醋暢之後、勅命参議右衛門督藤原朝臣諸葛、弾和琴、王公並作歌、天皇自歌、宴楽畢景。と見えたり。そもそも嵯峨ノ天皇もはらから詩をのみ好ませ給ひしより、かかる御宴のをりなども、只詩をのみ作られて、歌のことは、絶て聞えざりしに、光孝天皇の御世より、又かく歌を好ませ給ひて、詩のかたは、衰ろへそめにたりき。

書き下し

同じ紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝紫宸殿に御し、宴を侍臣に賜う。左右近衛府遞いに音楽を奏し、日暮れて和琴を奏し和歌を作る、群臣具に酔い、歓を極めて罷む、禄を賜うこと各差有り。また同じ二年十月丙午朔、日これを蝕する有り。二日丁未、天皇紫宸殿に御し宴を侍臣に賜う。親王・太政大臣、及び参議已上、並びに殿の座に侍し、六府番上の簿を庭に奏し、左右近衛府、遞いに音楽を奏す。酣暢の後、参議右衛門督藤原朝臣諸葛に勅命して、和琴を弾かしめ、王公並びに歌を作り、天皇自ら歌いたまい、宴楽景を畢う。と見えたり。そもそも嵯峨の天皇もはらから詩をのみ好ませ給いしより、かかる御宴のおりなども、ただ詩をのみ作られて、歌のことは、絶えて聞えざりしに、光孝天皇の御世より、またかく歌を好ませ給いて、詩のかたは、衰えそめにたりき。

現代語訳

同じ紀(三代実録)に「仁和元年(885)冬十月壬子朔、天皇(光孝天皇)は紫宸殿にお出ましになり、侍臣に宴を賜った。左右の近衛府がかわるがわる音楽を奏し、日が暮れて和琴を奏し和歌を作った。群臣はみな酔い、歓を尽くして退出した。禄をそれぞれ差をつけて賜った」とあり、また「同じく二年十月丙午朔、日食があった。二日丁未、天皇は紫宸殿にお出ましになり、侍臣に宴を賜った。親王・太政大臣、および参議以上がみな殿上の座に侍り、六衛府が番上の名簿を庭で奏上し、左右の近衛府がかわるがわる音楽を奏した。宴たけなわとなった後、参議右衛門督藤原朝臣諸葛に勅命して和琴を弾かせ、王公がみな歌を作り、天皇も自らお歌いになり、宴楽は日暮れまで続いた」と見えている。そもそも嵯峨天皇がもっぱら漢詩ばかりを好まれてから、このような御宴の折なども、ただ詩ばかりを作られて、歌のことはまったく聞かれなかったのに、光孝天皇の御代から、またこのように歌を好まれて、詩の方は衰え始めたのである。

解説

宮廷で和歌が再び重んじられるようになった転機を、光孝天皇の御代に見た段である。嵯峨天皇以来、宮廷の宴では漢詩ばかりが作られ、和歌は公の場から退いていた。ところが三代実録には、光孝天皇の宴で和琴が奏でられ、群臣が和歌を作り、天皇自らも歌ったという記事が続けて現れる。宣長はこれを、歌の道が再び興り、詩が衰え始めたしるしと読む。光孝天皇は、百人一首の「君がため春の野に出でて若菜摘む」の作者としても知られる。この後、宇多・醍醐天皇の時代に古今集が編まれ、和歌は勅撰集として公の文学の座を取り戻してゆく。漢詩文の隆盛から国風文化への移り変わりを、宴の記事の小さな変化から捉えたところに、宣長の読みの鋭さがある。

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