玉勝間 / 四の巻 祝部ノ成仲九十ノ賀
同書云、文治四年五月十六日辛亥、日吉社禰宜成仲、結構九十賀、好士多以行向、可然之卿相送和歌。
新字:同書云、文治四年五月十六日辛亥、日吉社祢宜成仲、結構九十賀、好士多以行向、可然之卿相送和歌。
書き下し
同書に云う、文治四年五月十六日辛亥、日吉社の禰宜成仲、九十の賀を結構す、好士多く以て行き向かう、然るべきの卿相和歌を送る。
現代語訳
同じ書(百錬抄)に言う。「文治四年(1188年)五月十六日辛亥、日吉社の禰宜の成仲が九十歳の賀の祝いを催した。風流を好む人々が多く出向き、しかるべき公卿たちが和歌を送った」。
解説
百錬抄から、日吉社の神職祝部成仲の九十歳の祝いの記事を抜いた短い一段である。成仲は平安末期の歌人で、比叡山の麓にある日吉社の禰宜を務めた。九十の賀を催すと、歌を好む人々が大勢集まり、公卿たちも和歌を贈った、という。宣長は評を加えていないが、次の段では、この成仲が七十四歳で藤原清輔の尚歯会に加わっていたことを記しており、二つの記事を並べることで一人の歌人の長寿と風雅の生涯が浮かび上がる。長寿を祝い、老いた歌人を敬う催しが、当時の歌の世界の大切な行事であったことがわかる。宣長は、長生きを願うのは人の真心だと別の段で述べた。老いを寿ぎ、それを歌で祝う古人の姿に、共感を寄せて書き留めたのであろう。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 清輔ノ朝臣尚歯会承安二年三月十九日、白川の宝荘厳院にして、藤原の清輔の朝臣、尚歯会を行われけり。前の馬寮の助藤原の敦頼八十三、神祇の伯顕広の王七十八、前の石見の介祝部の成仲七十四、宮内卿藤原の永範の卿七十一、右京の権の太夫源の頼政六十九、清輔六十九、前の式部の少輔大江の維光六十三、この七人なりき。この尚歯会の記一まき、いにし明和の頃、板にえりて、世にひろまれり。
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