玉勝間 / 十三の巻 嵯峨天皇四十御賀
類聚國史に、天長二年十一月己巳朔丙申、奉賀太上天皇五八之御齡、白日旣傾、繼之以燭、雅樂奏樂、中納言正三位良峰朝臣安世、下自南階舞、群臣亦率舞云云。
新字:類聚国史に、天長二年十一月己巳朔丙申、奉賀太上天皇五八之御齢、白日既傾、継之以燭、雅楽奏楽、中納言正三位良峰朝臣安世、下自南階舞、群臣亦率舞云云。
書き下し
類聚国史に、天長二年十一月己巳朔丙申、太上天皇五八の御齢を賀し奉る、白日既に傾き、これに継ぐに燭を以てす、雅楽楽を奏す、中納言正三位良峰朝臣安世、南階より下りて舞う、群臣また率いて舞うと云云。
現代語訳
『類聚国史』に、「天長二年十一月二十八日、太上天皇(嵯峨上皇)の四十歳の御年を祝い申し上げた。日がすでに傾いたので、灯火をともして続けた。雅楽寮が音楽を演奏し、中納言正三位良峰朝臣安世が南の階段を下りて舞い、群臣もまた続いて舞った」とある。
解説
天長二年(825)、嵯峨上皇の四十歳を祝う宴が、日が暮れても灯をともして続けられたという記事を写した段である。四十歳を祝う「四十の賀」は、以後十年ごとに行われる算賀の始まりで、平安時代の貴族社会で大切にされた。宴では上皇の異母弟にあたる良峰安世がみずから舞い、群臣もこれに続いたという。「五八」は五かける八で四十を表す、漢文らしい言い回しである。宣長は論評を加えていないが、宮廷の祝いの儀礼の古い例として、年中行事や有職故実の考証に役立つ記録と見て書き留めたのであろう。人生の節目を皆で祝い、夜まで舞い興じる宮廷の華やぎが、短い記事から浮かび上がる。
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