玉勝間 / 十三の巻 はまなの橋
同紀に、同八年九月朔、遠江國濱名橋、長五十六丈、廣一丈三尺、高一丈六尺、貞觀四年修造。歷二十餘年、旣以破壞。勅給彼國正稅稻、一萬二千六百三十束、改作焉。
新字:同紀に、同八年九月朔、遠江国浜名橋、長五十六丈、広一丈三尺、高一丈六尺、貞観四年修造。歴二十余年、既以破壊。勅給彼国正税稲、一万二千六百三十束、改作焉。
書き下し
同紀に、同八年九月朔、遠江国の浜名橋、長さ五十六丈、広さ一丈三尺、高さ一丈六尺、貞観四年修造す。二十余年を歴て、既に以て破壊す。勅して彼の国の正税稲、一万二千六百三十束を給い、改め作らしむ。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「同八年(仁和元年)九月一日、遠江国の浜名橋は、長さ五十六丈、幅一丈三尺、高さ一丈六尺で、貞観四年に修造した。二十余年を経て、すでに壊れてしまった。勅してその国の正税の稲一万二千六百三十束を与え、改めて造らせた」とある。
解説
東海道の浜名湖に架かっていた浜名橋について、その大きさと修造の記録を写した段である。長さ五十六丈はおよそ百七十メートルにもなり、当時としては大規模な橋であった。浜名橋は歌枕としても名高く、『枕草子』の「橋は」の段にも挙げられ、『更級日記』には作者が上京の途中にこの橋を渡ったことが記されている。後に明応七年(1498)の大地震で浜名湖が海とつながり、橋は失われた。宣長がこの記事を取り上げたのは、歌枕として知られた橋の実際の姿を、正史の数字によって確かめられるからであろう。二十年余りで壊れ、国の稲を費やして架け替えられた記録からは、交通の要所を維持するための古代の人々の苦労も見えてくる。
関連する章句
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