玉勝間 / 十三の巻 鴨河の韓橋
同紀に、元慶三年九月廿五日云云、是夜鴨河辛橋火、燒斷大半。また仁和三年五月十四日云云、是日始置守韓橘者二人、以山城國仔下充之と見ゆ。橘ノ字は、橋を誤れるなり。さて此橋は鴨川のいづこばかりにか在りけむ。
新字:同紀に、元慶三年九月廿五日云云、是夜鴨河辛橋火、焼断大半。また仁和三年五月十四日云云、是日始置守韓橘者二人、以山城国仔下充之と見ゆ。橘ノ字は、橋を誤れるなり。さて此橋は鴨川のいづこばかりにか在りけむ。
書き下し
同紀に、元慶三年九月廿五日云云、是の夜鴨河の辛橋火あり、焼けて大半を断つ。また仁和三年五月十四日云云、是の日始めて韓橘を守る者二人を置き、山城国の仔下を以てこれに充つと見ゆ。橘の字は、橋を誤れるなり。さてこの橋は鴨川のいずこばかりにか在りけむ。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「元慶三年九月二十五日云々、この夜、鴨川の辛橋が火事になり、焼けて大半が落ちた」、また「仁和三年五月十四日云々、この日初めて韓橘の番人を二人置き、山城国の仔下をこれに充てた」と見える。「橘」の字は「橋」を誤ったものである。さて、この橋は鴨川のどのあたりにあったのだろうか。
解説
鴨川に架かっていた「韓橋(辛橋)」についての記事を集めた段である。この橋は火事で大半が焼け落ち、その後番人が置かれたという。宣長は、記事の中の「韓橘」の「橘」は「橋」の書き誤りだと指摘し、そのうえで、この橋が鴨川のどこにあったのかと問いを残している。「韓(から)」の名は、渡来系の人々と関わる名であったとも考えられるが、確かな場所は分かっていない。宣長は、正史に記された地名や建造物について、その所在を具体的に知りたいという関心を強く持っていた。書物の中の地名を、実際の土地と結びつけて理解しようとする姿勢である。答えの出ない問いも、後の人のために書き残しておくことに意味がある。
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