玉勝間 / 十三の巻 箱根山を箱荷山と云ひし事
記略に、延曆廿一年五月甲戌、廢相模國足柄路、開筥荷途、以富士燒、碎石塞道也。同廿二年五月丁卯廢相模國筥荷路、復足柄舊路とある。筥荷は、今の箱根と聞ゆ。
新字:記略に、延暦廿一年五月甲戌、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼、砕石塞道也。同廿二年五月丁卯廃相模国筥荷路、復足柄旧路とある。筥荷は、今の箱根と聞ゆ。
書き下し
記略に、延暦廿一年五月甲戌、相模国の足柄路を廃し、筥荷の途を開く、富士の焼くるに、砕石道を塞ぐを以てなり。同廿二年五月丁卯相模国の筥荷路を廃し、足柄の旧路に復すとある。筥荷は、今の箱根と聞こゆ。
現代語訳
『日本紀略』に、「延暦二十一年五月甲戌、相模国の足柄路を廃して、筥荷(はこね)の道を開いた。富士山が噴火して、砕けた石が道を塞いだからである」、「同二十二年五月丁卯、相模国の筥荷路を廃し、足柄の旧道に戻した」とある。「筥荷」は今の箱根のことと思われる。
解説
延暦年間の富士山の噴火で足柄峠の道が埋まり、一時的に箱根の道が開かれたという記事から、「筥荷」が今の「箱根」であることを示した段である。延暦十九年から二十一年にかけての富士山の大噴火は、正史に記録された大きな災害であった。古代の東海道は足柄峠を越えていたが、噴火で道が塞がれたため箱根越えの道を開き、翌年には元の足柄道に戻したという。箱根の道が東海道の本道となるのは、ずっと後の時代のことである。宣長は、地名が昔は別の字で書かれていたことを確かめるのに、この記事を役立てている。自然災害によって人の往来の道筋が変わったという記録は、地名の歴史とともに、災害と暮らしの関わりをも伝えている。
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