玉勝間 / 十三の巻 鳥羽の勝光明院の宝物の事
久安二年八月廿三日庚申、是日、法皇御覽鳥羽勝光明院寶藏所納寶物、卽有被書目錄事、件目錄、先年白川御所炎上之時、燒失也。顯密之聖〓、古今之典籍、道具書法、弓劔管絃之類、皆是往代之重寶也。と同じ書に見えたり。
新字:久安二年八月廿三日庚申、是日、法皇御覧鳥羽勝光明院宝蔵所納宝物、即有被書目録事、件目録、先年白川御所炎上之時、焼失也。顕密之聖〓、古今之典籍、道具書法、弓剣管絃之類、皆是往代之重宝也。と同じ書に見えたり。
書き下し
久安二年八月廿三日庚申、是の日、法皇鳥羽の勝光明院の宝蔵に納むる所の宝物を御覧じ、即ち目録を書かるる事有り、件の目録は、先年白川の御所炎上の時、焼失するなり。顕密の聖〓、古今の典籍、道具書法、弓剣管絃の類、皆是れ往代の重宝なり。と同じ書に見えたり。
現代語訳
「久安二年八月二十三日庚申、この日、鳥羽法皇が鳥羽の勝光明院の宝蔵に納められている宝物をご覧になり、そこで目録をお書かせになることがあった。その目録は、先年白河の御所が炎上した時に焼失していたのである。顕教・密教の聖典、古今の典籍、道具や書道の手本、弓・剣・楽器の類で、みな昔の代々の重宝である」と、同じ書に見えている。
解説
鳥羽法皇が離宮鳥羽殿の勝光明院の宝蔵を開いて宝物を点検し、目録を作り直させたという記録である。以前の目録は白河の御所の火災で焼けてしまっていた。宝蔵には仏典や典籍、書の名品、武具や楽器など、代々の重宝が納められていた。勝光明院の宝蔵は、宇治平等院の宝蔵と並ぶ院政期の名高い宝庫で、多くの名物がここに集められたと伝えられる。宣長がこの記事を採ったのは、古い書物や宝物がどのように保管され、そしてどのように失われていったのかへの関心からであろう。目録そのものが火災で失われたという事実は、何が所蔵されていたかさえ分からなくなる危うさを物語っている。記録を分けて残すことの大切さを伝える記事である。
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