玉勝間 / 十三の巻 鴨河を掘し事
外記局日記に、康治元年八月廿五日乙酉云云、近日依院仰、被堀鴨河、(大炊御門末以南)諸國吏各進役夫、是白河御願寺等、爲防水害也。民部卿顯賴卿奉行此事。また同年九月二日辛卯、從昨日大雨、去曉以後大風、河邊民戶、多以流亡。日來所被堀之鴨川、淵變爲瀨了。徒費役夫、已無所成。
新字:外記局日記に、康治元年八月廿五日乙酉云云、近日依院仰、被堀鴨河、(大炊御門末以南)諸国吏各進役夫、是白河御願寺等、為防水害也。民部卿顕頼卿奉行此事。また同年九月二日辛卯、従昨日大雨、去暁以後大風、河辺民戸、多以流亡。日来所被堀之鴨川、淵変為瀨了。徒費役夫、已無所成。
書き下し
外記局日記に、康治元年八月廿五日乙酉云云、近日院の仰せに依りて、鴨河を堀らる、(大炊御門の末以南)諸国の吏各役夫を進む、是れ白河の御願寺等、水害を防がんが為なり。民部卿顕頼卿この事を奉行す。また同年九月二日辛卯、昨日より大雨、去る暁以後大風、河辺の民戸、多く以て流亡す。日来堀らるる所の鴨川、淵変じて瀬と為り了んぬ。徒らに役夫を費やし、已に成す所無し。
現代語訳
『外記局日記』に、「康治元年八月二十五日乙酉云々、近ごろ院(鳥羽法皇)の仰せによって、鴨川を掘られている(大炊御門大路の末より南)。諸国の国司がそれぞれ人夫を差し出した。これは白河にある御願寺などを水害から守るためである。民部卿藤原顕頼卿がこの事を担当した」。また「同年九月二日辛卯、昨日から大雨、明け方以後は大風で、川辺の民家が多く流失した。日ごろ掘らせていた鴨川は、淵が変わって浅瀬となってしまった。むだに人夫を費やしただけで、何の成果もなかった」とある。
解説
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