玉勝間 / 十三の巻 七高山といふこと
同紀に、元慶二年、詔以近江國坂田郡伊吹山護國寺、列於定額、沙門三修申牒爾云云仁壽年中登到此山、即是七高山之其一也云云。
新字:同紀に、元慶二年、詔以近江国坂田郡伊吹山護国寺、列於定額、沙門三修申牒爾云云仁寿年中登到此山、即是七高山之其一也云云。
書き下し
同紀に、元慶二年、詔して近江国坂田郡の伊吹山の護国寺を以て、定額に列す、沙門三修申牒すらく云云仁寿年中此の山に登り到る、即ち是れ七高山の其の一なり云云。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「元慶二年、詔して近江国坂田郡の伊吹山の護国寺を定額寺の列に加えた。僧三修が申し出た文書に言う云々、仁寿年中にこの山に登った。すなわちこれは七高山のうちの一つである云々」とある。
解説
「七高山」という言葉が史料に見えることを示した短い段である。七高山とは、平安時代に朝廷が国家の安泰を祈る修法を行わせた七つの霊山で、比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山・金峰山・葛城山を指すとされる。記事は、伊吹山の護国寺を朝廷が公認する定額寺に加えた際の、僧三修の申し出の一節である。三修は伊吹山を開いた僧として知られる。宣長は論評を加えていないが、こうした語がいつ、どのような文脈で使われていたかを正史で確かめておくことは、言葉や制度の由来を考える基礎となる。山を神聖な場所として祈りを捧げる古い信仰と、仏教の修行の場としての山とが重なり合っていたことも、この短い記事からうかがえる。
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