玉勝間 / 十三の巻 諸王の事
件の天長九年の詔書には、王號乃止於五世、と有れども、續後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某ノ王、七世某ノ王と云ふ名、多く見えたるは、いかなるにか。此事なほよく考ふべし。
新字:件の天長九年の詔書には、王号乃止於五世、と有れども、続後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某ノ王、七世某ノ王と云ふ名、多く見えたるは、いかなるにか。此事なほよく考ふべし。
書き下し
件の天長九年の詔書には、王号乃ち五世に止まる、と有れども、続後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某の王、七世某の王と云う名、多く見えたるは、いかなるにか。この事なおよく考うべし。
現代語訳
先の天長九年の詔書には「王号は五世に止まる」とあるけれども、『続日本後紀』の承和八年・十年・十四年、嘉祥二年などのところに、「六世某王」「七世某王」という名が多く見えているのは、どういうことであろうか。このことはなおよく考えるべきである。
解説
前段の諸王の制度についての締めくくりとして、宣長が一つの矛盾を指摘した段である。天長九年(832)の詔書では、王号は五世までとされていたのに、同じ時代の正史『続日本後紀』には「六世某王」「七世某王」と名乗る人々が数多く記されている。法令と実際の記録が食い違っているのである。宣長はここで無理に説明をつけず、「なおよく考うべし」と問いのまま残している。制度の条文だけを読んで当時の実態を分かったつもりにならず、実際の記録と突き合わせて矛盾を見つけるのは、歴史を調べるうえで欠かせない作業である。解けない問題を正直に解けないと記し、後の研究に託す姿勢も、宣長の学問の誠実さを示している。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 諸王の事継嗣令に云う、凡そ皇の兄弟皇子、(女帝の子もまた同じ)皆親王と為す、以外は並びに諸王と為す、親王より五世は、王の名を得と雖も、皇親の限りに在らず。文徳実録に云う、斉衡三年四月甲午、弾正台奏す。五世の王は、王号有りと雖も、皇親の限りに非ず、その朝服の色宜しく王臣の位階に依るべし、これに従う。三代実録に云う、貞観四年四月十二日、詔を下す、参議已上をして、各時政の是非を論じ、世俗の得失を詳らかにせしむ。云云、是より先諸王、二世より四世に至るまで、夏冬の衣服を賜う、人数を限らず、年の数符に随いて、多少を出だしてこれを賜う。或いは五六百人に至る、是の時簿に載せて官に進むる者、四百余人なり。豊前上疏して曰く。諸王の給服、人数定まらず、徒らに帑蔵を費やす、何ぞ紀極無き、望み請うらくは当時の所在を以て、定数と為し、闕くるに随いてこれを補い、転じて過ぐるを聴さざらんことを、これに従う。豊前とあるは、豊前王と云う人の名な又同十二年二月廿日、公卿奏して諸王の季禄を減じ、兼ねて給禄の定額を立てんことを請う日、云云、今府帑稍密にして貢職少なし、当に諸王の禄を停めて、救弊の計を存すべき者。云云、但し専らこれを停むれば則ち皇親を疎んずるに似たり、全くこれを給えば、則ち国用を闕くべし云云、又王氏蕃昌して、曩日に万倍す、その禄賜を計るに、費やす所支え難し、伏して望むらくは当時禄に預かる者、四百二十九人を、定員と為さんことを云云奏可す。また元慶四年十月廿七日、摂津国河辺郡の人、九世、従七位下川原公福貞云云等五戸の課条を免ず、福貞等白して言う、云云、謹んで天長九年十二月十五日の詔書を検ずるに夫れ王氏は、王号は五世に止まり、資蔭は六世を過ぎず、云云、宜しく七世以下、数を計りて五世に至らば、課役蠲除すべし、その既に姓を賜う者は、先後を論ぜず、一に王の蔭に依り、世を計りてこれを容るること亦この例に同じ者。云云、望み請うらくは、同じく蠲除せられんことを、これを許す。
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『玉勝間』五の巻 中ごろまでは諸王おほかりし事園太暦、康永三年の除目に、従五位下為実王(天暦の御後)、貞和二年の除目に、従五位下宗友の王(天暦の御後)、同三年の除目に、従五位下資方王(寛和の御後)、延文四年の除目に、従五位下資能王(寛和の御後)など有り。この程までは、諸王も猶多かりしと見えたり。
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