玉勝間 / 九の巻 大峰の神仙と云ふ所
金葉集、千載集などの詞書に、大峰の神仙と云ふ所見えたり。金峰山の南に在って、深禪とも深山とも書なり。今は神山と書て、じんぜと云ふ。里人の云へるは、金峰山より釋迦が嶽まで、十三里、釋迦が嶽より神山まで、六里半ありとなり。峰中の詞に、一里を一トなびきと云ひて、大峰の峰中をすべて、七十五なびきと云へり。さて俗には、金峰山を、大峰と心得たれど、そは誤なり。金峰山は御たけにて、大峰と云ふは、かの神仙のあたりなり。千載集の詞書にも、みたけより大峰にまかり入りて、神仙と云ふ所にてと有り、と同じ書にしるせり。
新字:金葉集、千載集などの詞書に、大峰の神仙と云ふ所見えたり。金峰山の南に在って、深禅とも深山とも書なり。今は神山と書て、じんぜと云ふ。里人の云へるは、金峰山より釈迦が嶽まで、十三里、釈迦が嶽より神山まで、六里半ありとなり。峰中の詞に、一里を一トなびきと云ひて、大峰の峰中をすべて、七十五なびきと云へり。さて俗には、金峰山を、大峰と心得たれど、そは誤なり。金峰山は御たけにて、大峰と云ふは、かの神仙のあたりなり。千載集の詞書にも、みたけより大峰にまかり入りて、神仙と云ふ所にてと有り、と同じ書にしるせり。
書き下し
金葉集、千載集などの詞書に、大峰の神仙と云う所見えたり。金峰山の南に在りて、深禅とも深山とも書くなり。今は神山と書きて、じんぜと云う。里人の云えるは、金峰山より釈迦が嶽まで、十三里、釈迦が嶽より神山まで、六里半ありとなり。峰中の詞に、一里を一となびきと云いて、大峰の峰中をすべて、七十五なびきと云えり。さて俗には、金峰山を、大峰と心得たれど、そは誤りなり。金峰山は御たけにて、大峰と云うは、かの神仙のあたりなり。千載集の詞書にも、みたけより大峰にまかり入りて、神仙と云う所にてと有り、と同じ書にしるせり。
現代語訳
『金葉集』『千載集』などの詞書に、「大峰の神仙」という所が見えている。金峰山の南にあって、「深禅」とも「深山」とも書く。今は「神山」と書いて「じんぜ」と言う。里人の言うには、金峰山から釈迦ヶ岳まで十三里、釈迦ヶ岳から神山まで六里半あるということである。峰中(修験の山中)の言葉で一里を「一なびき」と言い、大峰の峰中を全部で「七十五なびき」と言う。さて世間では金峰山を大峰と心得ているが、それは誤りである。金峰山は御嶽であって、大峰というのはあの神仙のあたりである。『千載集』の詞書にも「御嶽から大峰に入って、神仙という所で」とある、と同じ書(紀伊国の地誌)に記している。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 吉野の水分ノ神社余国にもこれかれ有り、祈年の祭また月次祭の祝詞に、水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して云云、と見えたり。さてこの水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申して、吉野のをも、六帖の歌、枕冊子などにも、みこもりの神と云い、今も子守大明神と申すこれなり。万葉七の巻の歌に、神さぶる磐根こごしきみよしのの水分山を見れば悲しも、と詠めるも、この神社の山なり。然るをみずわけやまとしも訓を付けたるは、この神の御名をだに知らざるひがことなり。また今の世に、吉野川ちかき丹治村と云う所に有る神社を、水分の神社とするも、いみしきひがことなり。水分の神社は、続紀に峰の神と有る如く、かの水分山の峰にして、今子守明神と申す御社なること、疑い無きを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水こもりと云う御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに当たるものにて、峰の神とあるにたがい、万葉なる歌のさまにも、かなわざる物をや。さてまた今時、このよし野山のすべてのさまを見るに、蔵王権現と云う物を、この山の主と祀りて、この水分の神その余も、やんごとなき神たちも、みなかの蔵王堂に属きたる、支社とぞなり給える。
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『玉勝間』九の巻 紀の国の鳴滝新古今集神祇の部に、思うこと身にあまるまでなる滝の云云と云える歌の、なる滝は、紀の国名草の郡、園部村の奥に在りて、いにしえ修験道の一場にして、名高き所なり。役の小角開基と云えり。熊野の神の、夢に告げ給えること、よし有り、今の世に、本宮の辺に、鳴滝とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名なりと、これも同書に云えり。
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『玉勝間』二の巻 又立田川然るに今水無瀬の里を過ぎて、はるかにあなたに、神内村と云う有りて、そのほとりに、ちいさき森のかたも有りて、これなむ神なびの杜なると云うなれど、そこにては、古の歌どもにかなわず、その近きほどには川も無し。思うに神内と云うは、後に地をうつして、古の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有るべし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるように聞こゆるは同じ山ざきの内ながら、その里よりかの森までと云うなるべし。
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『玉勝間』九の巻 いそのへぢ新古今集旅の部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢと有る所は、紀の国熊野に物するに、牟婁の郡田辺より、海べを経て、熊野に出づる道あり、これなるべし。この道伊勢まで続けり。長く磯づたいに行く路なる故に、いそのべぢとは云うなるべし。今の俗にも、大浜路と云うなり。行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり。又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の島云云と有るも、この道の事なるべしと、同じ書に云えり。
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『玉勝間』一の巻 立田川古今集秋下に、神なびの山を過ぎて、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるを詠める、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる。この神なび山は、山城の国乙訓の郡にて、同集別の部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、と有ると同じ所なり。さて源の重行集に、山崎川を立田川と云うを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出でしより後くやしきは船路なりけり、と有り。然れば立田川と云うも、山崎のあなた、津の国島上の郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道なり。大和の国の立田とは別なり。然るを、神なび山と云うも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和の国のとのみ思えり。契沖も然か心得て、神なび山は高市の郡、立田は平群の郡にて遥かにへだたれれば、その山の紅葉の、立田川に流るべきことわり無しと云いて疑いたり。されど詞書に、歌ぬしのみづから、その山を越え、その川を渡りて詠めると有れば、誤りとは云いがたし。然るを吾師は、もとよりかの歌をひがこととして、詞書をさえ、撰者の作れるがごとく云われたるは、云い過ごしなりけり。
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『玉勝間』十の巻 高野山性霊集補闕に云う、紀伊国伊都郡高野の峰に於て入定の所を請い乞わるる表に曰く、空海少年の日、好んで山水を渉覧す、吉野より南に行くこと一日、更に西に向いて去ること両日程、平原の幽地有り、名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当たる、四面高嶺にして、人蹤蹊を絶つ、云々。
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