玉勝間 / 十三の巻 越前国荒道山
類聚國史に、天長九年六月己丑、越前國正稅三百束、給作彼國荒道山道人、坂井郡秦乙麻呂と見ゆ。古書に、愛發ノ關とあるは、此荒道山にて、ともにあらちと訓む。今も有る地ノ名なり。
新字:類聚国史に、天長九年六月己丑、越前国正税三百束、給作彼国荒道山道人、坂井郡秦乙麻呂と見ゆ。古書に、愛発ノ関とあるは、此荒道山にて、ともにあらちと訓む。今も有る地ノ名なり。
書き下し
類聚国史に、天長九年六月己丑、越前国の正税三百束、彼の国の荒道山の道を作る人、坂井郡の秦乙麻呂に給うと見ゆ。古書に、愛発の関とあるは、この荒道山にて、ともにあらちと訓む。今も有る地の名なり。
現代語訳
『類聚国史』に、「天長九年六月己丑、越前国の正税の稲三百束を、その国の荒道山の道を作った人、坂井郡の秦乙麻呂に与えた」と見える。古書に「愛発(あらち)の関」とあるのは、この荒道山のことで、どちらも「あらち」と訓む。今もある地名である。
解説
越前の荒道山に道を開いた人に朝廷が褒美を与えたという記事から、古代の三関の一つ「愛発の関」の所在を確かめた短い段である。愛発の関は、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関とともに都を守る三関とされたが、早くに廃されて場所が分からなくなっていた。宣長は「荒道」と「愛発」がともに「あらち」と読めることから、両者を同じ地と見て、その名が今も残っていると指摘する。今の福井県敦賀市の南、滋賀県との境の山中にあたる。異なる漢字で書かれた地名を、読みの一致によって結びつけるのは、音を本体とみる宣長の言語観に基づく方法である。道を開いた一人の庶民の名が史書に残っていることにも、目を留めておきたい。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 七高山といふこと同紀に、元慶二年、詔して近江国坂田郡の伊吹山の護国寺を以て、定額に列す、沙門三修申牒すらく云云仁寿年中此の山に登り到る、即ち是れ七高山の其の一なり云云。
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ西宮記郡司の読奏の条に、東海道(ウチヘツミチ、ウヘツアチ、またヒウガシノウミノミチ、)東山道(ヒウガシノヤマノミチ、またヒウガシノミチ、またウメツアチ、)北陸道(クルカノアチ、またキタノアチ、ヤマノアチ、)山陰道(止モノアチ、またカゲ止モノアチ、)山陽道(カゲトモノアチ、また曾トモノミチ、)南海道(ミナミノミチ、またミナミノウミノミチ、)西海道(ニシノミチ、またニシノウミノミチ、)大領(古保乃見ヤツ古)少領(爪ケノ見ヤツ古、また爪ケミヤツコ、)と見え、北山抄には、畿内(宇治都久仁)東海道(宇女都美チ、また宇倍都道)東山道(山乃道、また東乃道)北陸道(久流加乃道)山陰道(曾止毛乃道、旧説加介止毛乃道)山陽道(加介止毛乃道、旧説曾止毛乃道)南海道(南乃道)西海道(西乃道)大領(古本乃ミヤツ古、また大古本乃ミヤツ古)少領(須介乃ミヤツ古)領(古本乃ミヤツ古、或る説に大領於本イミヤツ古、領ミヤツ古、今の説尺上是式部例数)国擬(久仁安天申利)擬大少領(加利乃-)自(音読)朝集使(朝集乃使)と見えたり。この二つの書を合わせて考うるに、西宮記の方に、東海道を、ウチベツミチと有る、上のチは、写し誤りにて海辺つ道なるべし、へもじ濁るべし。ウベツアチは、うみべのみを省きたるにて、これも海辺つ道なるべし。アチは、即ち道なり。
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ昔の片仮字には、ミをもアと書けること、書紀の訓などにも多く有りて、まぎらわしきなり。これ必ず差ありけむを、今は見分けがたくなりぬ。ヒウガシは、ひんがしと云うと同じ。こはもとひむかしにて、むは、たしかにむと云い、かも清みたる言なるを、音便にて、むをうとも、んとも云い、それに引かれて、かをも濁るなり。日向を、ひうがと云うも同じ。東山道を、ウメツミチ、北陸道を、ヤマノミチと有るは、後に写すとて、所を誤れるなり。ウメツミチは、東海道の読、ヤマノミチは、東山道の読なり。北山抄正し。さてウメツは、かのウベと同じくて、ベを通わしてメと云えるなり。北陸道を、クルガノミチと有る、クルガは、くぬがを唱え誤れるなるべし。くぬがは、今の世にも陸と云う、これなり。山陰道を止モノミチと有るは、止の上に、曾の字有りしが脱けたるなり。そもそも西宮記、おのが見たるかれこれの本どもは、みな上の件の如くなるを、写し誤りとおぼしき所どころは、善本今も有るべきなり。北山抄のかたは、すべて正しく見ゆ。その中に、北陸道に、キタノミチと云う読〓無きは、落ちたるにや。南海道西海道の例によるに、これも北の道とも云うべきなり。
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