玉勝間 / 十三の巻 応天門朱雀門羅城門の名の事
同紀に、貞觀十三年十月、應天門火災之後、修復既訖、令明經文章等博士、議應應門可改名歟、又名二應天門、其義何據又朱雀羅城等門、名義如何。從五位上行大學頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議言、宮殿城門等、火災之後、更改其名者、兩漢以上、未必有此事。但魏明帝靑龍二年云云、唐玄宗天寶二年、東京應天門災云云、十一月應天門成、改日乾天門。本朝制度、多擬唐家云云、除其舊號、更制嘉名、不亦宜哉。又洛都宮城門、是謂應天門。案禮含文嘉日、湯順人心、應於天、然則應天之名、蓋取諸此歟。又長安南面皇城門、是謂朱雀門、云云、然則以其在南方故、謂之朱雀乎。又稱羅城門者、是周之國門云云、其義未詳。但大唐六典注云、自大明宮、夾東羅城復道云云、蓋此羅列之意乎。從五位上行大學博士兼越前權介菅野朝臣佐世云云等議言、云云、卽雖魯之天災、猶不改名今此應天門、旣是人火、仍舊謂之、何必更改。但名曰應天朱雀羅城之義、經典爲先見焉。この文、はじめのほど、印本には脫たり。今は一ヲの寫本に依て引々り。此ところ印本は、二ひら脫たるなり。
新字:同紀に、貞観十三年十月、応天門火災之後、修復既訖、令明経文章等博士、議応応門可改名歟、又名二応天門、其義何拠又朱雀羅城等門、名義如何。従五位上行大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議言、宮殿城門等、火災之後、更改其名者、両漢以上、未必有此事。但魏明帝青竜二年云云、唐玄宗天宝二年、東京応天門災云云、十一月応天門成、改日乾天門。本朝制度、多擬唐家云云、除其旧号、更制嘉名、不亦宜哉。又洛都宮城門、是謂応天門。案礼含文嘉日、湯順人心、応於天、然則応天之名、蓋取諸此歟。又長安南面皇城門、是謂朱雀門、云云、然則以其在南方故、謂之朱雀乎。又称羅城門者、是周之国門云云、其義未詳。但大唐六典注云、自大明宮、夾東羅城復道云云、蓋此羅列之意乎。従五位上行大学博士兼越前権介菅野朝臣佐世云云等議言、云云、即雖魯之天災、猶不改名今此応天門、既是人火、仍旧謂之、何必更改。但名曰応天朱雀羅城之義、経典為先見焉。この文、はじめのほど、印本には脱たり。今は一ヲの写本に依て引々り。此ところ印本は、二ひら脱たるなり。
書き下し
同紀に、貞観十三年十月、応天門火災の後、修復既に訖る、明経文章等の博士をして、議せしむ応天門名を改むべきか、又応天門と名づくる、その義何に拠るか又朱雀羅城等の門、名義如何。従五位上行大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議して言う、宮殿城門等、火災の後、更にその名を改むること、両漢以上、未だ必ずしもこの事有らず。但し魏の明帝青龍二年云云、唐の玄宗天宝二年、東京の応天門災あり云云、十一月応天門成り、改めて乾天門と曰う。本朝の制度、多く唐家に擬す云云、その旧号を除き、更に嘉名を制す、また宜しからずや。又洛都の宮城門、是れ応天門と謂う。案ずるに礼含文嘉に曰く、湯人心に順い、天に応ず、然れば則ち応天の名、蓋し諸を此に取るか。又長安の南面の皇城門、是れ朱雀門と謂う、云云、然れば則ちその南方に在るを以ての故に、これを朱雀と謂うか。又羅城門と称するは、是れ周の国門云云、その義未だ詳らかならず。但し大唐六典の注に云う、大明宮より、東の羅城を夾む復道云云、蓋しこれ羅列の意か。従五位上行大学博士兼越前権介菅野朝臣佐世云云等議して言う、云云、即ち雉魯の天災すら、猶名を改めず今この応天門、既に是れ人火なり、旧に仍りてこれを謂う、何ぞ必ずしも更に改めん。但し名づけて応天朱雀羅城と曰うの義、経典に先ず見ゆることを為す。この文、はじめのほど、印本には脱けたり。今は一つの写本に依りて引けり。このところ印本は、二ひら脱けたるなり。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「貞観十三年十月、応天門が火災にあった後、修復がすでに終わったので、明経・文章などの博士に議論させた。応天門の名を改めるべきかどうか、また応天門と名づけたのは何を根拠とするのか、また朱雀・羅城などの門の名の意味はどうか、と。従五位上行大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄が議して言った。『宮殿や城門などが火災の後にその名を改めることは、前漢・後漢以前には必ずしもなかった。ただ魏の明帝の青龍二年云々、唐の玄宗の天宝二年に東都の応天門が焼け云々、十一月に応天門が完成して、改めて乾天門と名づけた。わが国の制度は多く唐にならっている云々、古い名を除いて新たによい名を定めるのも、よいことではないか。また洛陽の宮城の門を応天門という。考えるに『礼含文嘉』に「湯王は人心に従い、天に応じた」とある。そうであれば応天の名はおそらくここから取ったのであろう。また長安の南面の皇城の門を朱雀門という云々、そうであればそれが南方にあるので朱雀というのであろうか。また羅城門と称するのは周の国の門で云々、その意味はまだよく分からない。ただし『大唐六典』の注に「大明宮から東の羅城を挟む二重の道」云々とある。おそらくこれは連なり並ぶという意味であろうか』。従五位上行大学博士兼越前権介菅野朝臣佐世らが議して言った。『云々、魯の雉門の天災の場合でさえ名を改めなかった。今この応天門は人の起こした火事である。元のままに呼べばよく、どうして改める必要があろうか。ただし応天・朱雀・羅城と名づけた意味は、経典に先に見えている』」とある。この文の初めのほどは、刊本では脱落している。今は一つの写本によって引いた。このところは、刊本では二枚分が脱落しているのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
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