神皇正統記 / 巻四 第五十六代 清和天皇
氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。
書き下し
氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。
現代語訳
氏の長者である人が主としてこの院を管轄して、興福寺と氏の社(春日社)のことを執り行われる。良房大臣が摂政をされてから、その一流に伝わって絶えないことになった。幼い君主の時だけのことかと思われたが、摂政・関白も定まった職になった。たまたま摂関という名を置かれない時も、内覧の臣を置かれたので、政を執る実質は変わらない。天皇が成人されたので、摂政(良房)は政をお返し申し上げて、太政大臣として白河に閑居された。君は外孫であられたから、なおも権力を一手に握られても争う人はいなかったであろう。けれども謙って退く心が深く、閑かな暮らしを好んで、ふだんの朝廷への出仕などもなさらなかった。そのころ大納言伴善男という人が寵愛を受けて大臣の位を望む志があった。当時、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に空きがなかった。源信(まこと)の左大臣を失脚させて、その空きに任ぜられようと謀り、まず応天門を焼かせた。そして、左大臣が世を乱そうとする企てであると讒言した。天皇は驚かれて、取り調べもなさらずに右大臣に命じ、あやうく左大臣が誅されるところとなった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止ことになん。天皇仏法に帰給て、つねに脱屣の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝の晋王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を点じ、もろもろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 幼主と摂政我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にましまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。
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