玉勝間 / 九の巻 正堂正寝
百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿於殿上定申、諸道勘申云云、正堂正寢、指何物哉事、正堂大極殿、正寢小安殿之由、師安勘申、而内大臣、正堂大極殿也、正寢小安殿之條、無所見之由被申。
新字:百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿於殿上定申、諸道勘申云云、正堂正寝、指何物哉事、正堂大極殿、正寝小安殿之由、師安勘申、而内大臣、正堂大極殿也、正寝小安殿之条、無所見之由被申。
書き下し
百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿殿上に於て定め申す、諸道勘え申すと云云、正堂・正寝、何物を指すやの事、正堂は大極殿、正寝は小安殿の由、師安勘え申す、而るに内大臣、正堂は大極殿なり、正寝は小安殿の条、所見無きの由申さる。
現代語訳
『百練抄』に、久安四年(1148)閏六月十五日、諸卿が殿上で評定し、諸道の学者が考えを申し上げたという。「正堂」「正寝」とは何を指すかということについて、中原師安は、正堂は大極殿、正寝は小安殿であると考えを申し上げた。ところが内大臣(藤原頼長)は、正堂が大極殿であることはよいが、正寝が小安殿だということには典拠が見当たらない、と申された、とある。
解説
漢籍にいう「正堂」「正寝」が、日本の宮殿のどの建物にあたるかを朝廷で論じた記事である。正堂も正寝も中国の礼書に出る言葉で、儀礼の場を定めるにはその当てはめが問題になる。明経道の学者中原師安は、大極殿と小安殿にあてたが、内大臣は正寝を小安殿とする典拠はないと退けた。この内大臣は当時の藤原頼長で、学問に厳しいことで知られた人物である。宣長がこれを書き留めたのは、漢籍の言葉を皇国の制度に当てはめる時にどれほど無理が生じるかを示す例と見たからだろう。所見がないものは認めないという頼長の言い分は、証拠によって語る宣長自身の方法にも通じている。
関連する章句
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