玉勝間 / 四の巻 門院と申す御号の事
同じ書に、上東門院の建させ給へる、東北院の事を云へる所に云はく、此堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。此後代代の女院の院号、かどの名聞え侍めり。陽明門も、近衞に當りたれば、此例によりてつかせ給へり。郁芳門待賢門などは、大炊ノ御門中ノ御門に御所おはしまさねど、なそらへてつかせ給へりとぞ聞え侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞えければ、あきかたの中納言と云ひし人の、此御れうにのこして置かれけるにこそ侍めれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給ひにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一條二條など申すにも、同じこころなるべしと有り。榮花物語くれまつ星の卷に、陽明門院を、やうめうもんの院とあり。そのかみはいづれも、斯く某門の院と、のを入れて申シけるにこそ。さも有るべき事なり。
新字:同じ書に、上東門院の建させ給へる、東北院の事を云へる所に云はく、此堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。此後代代の女院の院号、かどの名聞え侍めり。陽明門も、近衛に当りたれば、此例によりてつかせ給へり。郁芳門待賢門などは、大炊ノ御門中ノ御門に御所おはしまさねど、なそらへてつかせ給へりとぞ聞え侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞えければ、あきかたの中納言と云ひし人の、此御れうにのこして置かれけるにこそ侍めれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給ひにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、やうめうもんの院とあり。そのかみはいづれも、斯く某門の院と、のを入れて申シけるにこそ。さも有るべき事なり。
書き下し
同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
現代語訳
同じ書(今鏡)に、上東門院(藤原彰子)が建てられた東北院のことを述べたところに言うには、「この御所は土御門大路の末に当たっていたので、上東門院と申し上げるのである。この後、代々の女院の院号は、門の名で聞こえるようになったようだ。陽明門院も、御所が近衛大路に当たっていたので、この例によってお付けになった。郁芳門院・待賢門院などは、大炊御門大路・中御門大路に御所がおありになったわけではないが、なぞらえてお付けになったと聞いている。待賢門院の院号をお定めになった時に、『なぞらえてお付けになるのならば、どうして(順を)飛び越えて郁芳門院とお付け申し上げたのか』などと申したところ、あきかたの中納言という人が『このお方の御料として残しておかれたのでございましょう』と申されたとかいうことで、それでお付けになったということだ。帝の御前などでは、土御門・近衛などとは申さずに、『上東門の大路からはどちら』『陽明門の大路からはそちら』などと奏上するそうだ。だから一条・二条などと申すのも、同じ心であろう」とある。栄花物語の暮待星の巻に、陽明門院を「ようめいもんの院」とある。当時はどれも、このように「某門の院」と「の」を入れて申し上げたのであろう。そうあるべきことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 上東門院左経記、万寿三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、御在所上東門院を以て院号と為す、と有り。斯かれば上東門院と云うは、もとより御在所の名なりけり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
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『玉勝間』四の巻 持明院持明院は、上立売の北、新町の西に有り。もと持明院の家の先祖、中納言基家卿の家なり。然るに後高倉院の妃北白川の院、この基家卿の御女なりしによりて、後高倉院この持明院にましまし、その後後堀川のみかど、御位おりさせ給いて、この院にましましけるより、あいつぎて代々、おりいのみかどの御所となれりと、或る人の説なり。
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『玉勝間』四の巻 法親王のはじめ続世継に、覚行法親王の御事を申していわく、わらわにても親王の御名え給わねども、親王の宣旨こうぶり給えり。後二条のおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、内親王と云う事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞こえ給いしなり。かくて後ぞ、打ち続きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給うめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおわしまさず。
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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