玉勝間 / 十四の巻 左右京朱雀ノ路朱雀門大極殿瓦ぶき
京都を、左京右京と分らるること、藤原、宮既に然りと見えて、大寶にいできたる令に、左右京職あり、續紀大寶三年の處にも、左京職云云の事見えたり。又和銅三年正月の處に、皇城門ノ外朱雀路と見えたり。これいまだ平城にうつり坐サぬさきなり。朱雀門は、旣に孝德天皇の、大化五年の紀に見えたり。又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり。但し其は當時は唯だ大やすみ殿と云ひて、いまだ大極殿と云ふ名は無かりしを、後の名をめぐらして記されたるも知リがたし。又齊明天皇ノ元年ノ紀に、於小墾田造起宮闕、擬將瓦覆とあるは、唯ださだばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これ始めなるべし。又五位以上及庶人の屋舍の瓦葺のさだも、神龜元年ノ紀に見えたり。
新字:京都を、左京右京と分らるること、藤原、宮既に然りと見えて、大宝にいできたる令に、左右京職あり、続紀大宝三年の処にも、左京職云云の事見えたり。又和銅三年正月の処に、皇城門ノ外朱雀路と見えたり。これいまだ平城にうつり坐サぬさきなり。朱雀門は、既に孝徳天皇の、大化五年の紀に見えたり。又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり。但し其は当時は唯だ大やすみ殿と云ひて、いまだ大極殿と云ふ名は無かりしを、後の名をめぐらして記されたるも知リがたし。又斉明天皇ノ元年ノ紀に、於小墾田造起宮闕、擬将瓦覆とあるは、唯ださだばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これ始めなるべし。又五位以上及庶人の屋舎の瓦葺のさだも、神亀元年ノ紀に見えたり。
書き下し
京都を、左京右京と分けらるること、藤原の宮既に然りと見えて、大宝にいできたる令に、左右京職あり、続紀大宝三年の処にも、左京職云云の事見えたり。又和銅三年正月の処に、皇城門の外朱雀路と見えたり。これいまだ平城にうつり坐さぬさきなり。朱雀門は、既に孝徳天皇の、大化五年の紀に見えたり。又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり。但しそれは当時はただ大やすみ殿と云いて、いまだ大極殿と云う名は無かりしを、後の名をめぐらして記されたるも知りがたし。又斉明天皇の元年の紀に、小墾田に於て宮闕を造り起こし、将に瓦もて覆わんと擬とあるは、ただ沙汰ばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これ始めなるべし。又五位以上及び庶人の屋舎の瓦葺の沙汰も、神亀元年の紀に見えたり。
現代語訳
都を左京と右京に分けられることは、藤原宮のときすでにそうであったと見えて、大宝年間に成立した令に左右の京職があり、『続日本紀』の大宝三年の箇所にも「左京職」云々のことが見える。また和銅三年正月の箇所に「皇城門の外の朱雀路」と見える。これはまだ平城京にお移りにならない前のことである。朱雀門は、すでに孝徳天皇の大化五年の紀に見えている。また大極殿は皇極天皇四年の紀に見えている。ただしそれは、当時はただ「大安殿(おおやすみどの)」と言って、まだ大極殿という名はなかったのを、後の名をさかのぼらせて記されたのかもしれない。また斉明天皇元年の紀に「小墾田に宮殿を造営し、瓦で葺こうとした」とあるのは、ただ計画の話だけであるが、宮殿の瓦葺きはこれが始めであろう。また五位以上の者や庶民の家屋の瓦葺きについての命令も、神亀元年の紀に見えている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 南殿続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
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『玉勝間』十三の巻 応天門朱雀門羅城門の名の事同紀に、貞観十三年十月、応天門火災の後、修復既に訖る、明経文章等の博士をして、議せしむ応天門名を改むべきか、又応天門と名づくる、その義何に拠るか又朱雀羅城等の門、名義如何。従五位上行大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議して言う、宮殿城門等、火災の後、更にその名を改むること、両漢以上、未だ必ずしもこの事有らず。但し魏の明帝青龍二年云云、唐の玄宗天宝二年、東京の応天門災あり云云、十一月応天門成り、改めて乾天門と曰う。本朝の制度、多く唐家に擬す云云、その旧号を除き、更に嘉名を制す、また宜しからずや。又洛都の宮城門、是れ応天門と謂う。案ずるに礼含文嘉に曰く、湯人心に順い、天に応ず、然れば則ち応天の名、蓋し諸を此に取るか。又長安の南面の皇城門、是れ朱雀門と謂う、云云、然れば則ちその南方に在るを以ての故に、これを朱雀と謂うか。又羅城門と称するは、是れ周の国門云云、その義未だ詳らかならず。但し大唐六典の注に云う、大明宮より、東の羅城を夾む復道云云、蓋しこれ羅列の意か。従五位上行大学博士兼越前権介菅野朝臣佐世云云等議して言う、云云、即ち雉魯の天災すら、猶名を改めず今この応天門、既に是れ人火なり、旧に仍りてこれを謂う、何ぞ必ずしも更に改めん。但し名づけて応天朱雀羅城と曰うの義、経典に先ず見ゆることを為す。この文、はじめのほど、印本には脱けたり。今は一つの写本に依りて引けり。このところ印本は、二ひら脱けたるなり。
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『玉勝間』六の巻 東京西京平安城は、東西の京を置かれしかども、はじめより今のごとく、東の京のみ栄えて、西の京は栄えざりしにや、慶保胤の池亭記に、予二十年以来、東西の二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に幾し。人は去る有りて来る無く、屋は壊るる有りて造る無し、と有り。
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『玉勝間』一の巻 大安殿大極殿は、第一の正殿なるが故に、おおやすみどのと云えるを、やがて大安殿とも書かれたるなり。続紀に、大極殿と大安殿とは、別なるが如く聞こゆる所も有れど然らず、同じ事なり。
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『玉勝間』一の巻 大安殿天武紀に、天皇、大安殿に御す云々と云える事、所々に見え、続紀にも多く見えたり。大安殿は、意富夜須美杼能と訓むべし、すなわち大極殿の事なり。また天智紀に、西の安殿、天武紀に、向の安殿、内の安殿、外の安殿、旧宮の安殿、文武紀に、東の安殿なども有る、皆やすみどのなり。やすみは、古き歌に、やすみししわが大きみと詠みて、これ安らけくて天の下を見し給う意。見し給うとは、しろしめす事なり。されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せるなり、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇徳天皇の御陵に参りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給いて、百官にいつかれさせ給い云々と云えるは、たまたま古言の残れりしなるべし。さて皇極紀・天武紀に、大極殿を、おおあむどのと訓み、天智紀に、西小殿と有るを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の内安殿を、うちのあむどのと訓めるなどは、何れもやすみどのと訓ましめむために、傍らに安ドノと書きたるを見て、誤りて安を音に訓めるひが事なり。またかたわらに晏の字を書ける所も有る、これもかの安を音に訓む事とひが心得して、あむと訓ましめむとてなり。
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