玉勝間 / 十三の巻 方違の事
同紀に、貞觀七年八月廿一日、天皇遷自東宮、御太政官曹司廳、爲來十一月、將遷御內裏也。當此之時、陰陽寮言、天皇御本命庚午、是年御絕命在乾、從東宮指内裏直乾、故避之也、云云、これいはゆるかたたがへなり。
新字:同紀に、貞観七年八月廿一日、天皇遷自東宮、御太政官曹司庁、為来十一月、将遷御内裏也。当此之時、陰陽寮言、天皇御本命庚午、是年御絶命在乾、従東宮指内裏直乾、故避之也、云云、これいはゆるかたたがへなり。
書き下し
同紀に、貞観七年八月廿一日、天皇東宮より遷りて、太政官の曹司庁に御す、来たる十一月、将に内裏に遷御せんとするが為なり。この時に当たりて、陰陽寮言す、天皇の御本命は庚午、是の年の御絶命は乾に在り、東宮より内裏を指すに直に乾なり、故にこれを避くるなり、云云、これいわゆるかたたがえなり。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「貞観七年八月二十一日、天皇(清和天皇)は東宮から移って太政官の曹司の庁にお入りになった。来たる十一月に内裏にお移りになろうとするためである。この時、陰陽寮が申し上げた。天皇の御本命(生まれ年の干支)は庚午で、この年の御絶命(凶の方角)は北西にある。東宮から内裏を指すと真北西にあたる。だからこれを避けるのである」云々とある。これがいわゆる方違えである。
解説
陰陽道の考えに基づく「方違え」の早い例を、清和天皇の御所の移転の記録から示した段である。方違えとは、目的地が凶の方角にあたるとき、いったん別の場所に移って方角を変えてから目的地に向かう習わしである。この記事では、天皇の生まれ年の干支から、その年の凶方が北西と定まり、東宮から内裏へ直接移ると北西にあたるため、いったん太政官の庁に移ったという。『源氏物語』の「帚木」の巻で、光源氏が方違えで紀伊守の家に泊まり、空蝉と出会う場面はよく知られている。宣長は論評していないが、平安文学に頻出するこの習わしが、朝廷の公式の記録にどのように現れるかを示す史料として採ったのであろう。見えない方角の吉凶に行動を左右された古代人の暮らしがうかがえる。
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