玉勝間 / 十三の巻 御霊会
同紀に、貞觀五年五月廿日壬午、於神泉苑、修御靈會、勅遣左近衛中將從四位下藤原朝臣基經、右近衛權中將從四位下兼行內藏頭藤原朝臣常行等、監會事、王公卿士、起集共觀、靈座六前、設-施几筵、盛陳花菓、恭敬薰修。延律師慧達、爲講師、演說金光明經一部、般若心經六卷、命雅樂寮伶人、作樂。以帝近侍兒童、及良家稚子、爲舞人。大唐高麗、更出而舞、新伎散樂、競盡其能、此日宣旨、開苑四門聽都邑人出入縱觀。所謂御靈者、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及觀察使橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅、寃魂成属、近代以來、疫病死亡甚衆、天下以爲此災御靈之所生也。始自京畿、爰及外國、每至夏天秋節、修御靈會、往往不斷。或禮佛說經、或歌且舞、令童丱之子、觀粧馳射、膂力之士、祖裼相撲、騎射呈藝、走馬爭勝、倡優嫚戯、遞相誇競、聚而觀者莫不塡咽。退邇因循、漸成風俗。今玆春初咳逆疫、百姓多斃。朝廷爲、祈、至是乃修此會以賽宿聽也とある、これ御靈會と云ふことの始ノなるべし。むかしは六月十四日の祇園會をも、祇園ノ御靈會と云ひき。そは御靈と云ふべきには有らざれども、祭のさまの、同じかりし故に、然云ひなせりしなるべし。
新字:同紀に、貞観五年五月廿日壬午、於神泉苑、修御霊会、勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等、監会事、王公卿士、起集共観、霊座六前、設-施几筵、盛陳花菓、恭敬薫修。延律師慧達、為講師、演説金光明経一部、般若心経六巻、命雅楽寮伶人、作楽。以帝近侍児童、及良家稚子、為舞人。大唐高麗、更出而舞、新伎散楽、競尽其能、此日宣旨、開苑四門聴都邑人出入縦観。所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及観察使橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅、冤魂成属、近代以来、疫病死亡甚衆、天下以為此災御霊之所生也。始自京畿、爰及外国、毎至夏天秋節、修御霊会、往往不断。或礼仏説経、或歌且舞、令童丱之子、観粧馳射、膂力之士、祖裼相撲、騎射呈芸、走馬争勝、倡優嫚戯、逓相誇競、聚而観者莫不塡咽。退邇因循、漸成風俗。今玆春初咳逆疫、百姓多斃。朝廷為、祈、至是乃修此会以賽宿聴也とある、これ御霊会と云ふことの始ノなるべし。むかしは六月十四日の祇園会をも、祇園ノ御霊会と云ひき。そは御霊と云ふべきには有らざれども、祭のさまの、同じかりし故に、然云ひなせりしなるべし。
書き下し
同紀に、貞観五年五月廿日壬午、神泉苑に於いて、御霊会を修す、勅して左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等を遣わし、会の事を監せしむ、王公卿士、赴き集まりて共に観る、霊座六前、几筵を設け施し、盛んに花菓を陳ね、恭敬薫修す。律師慧達を延きて、講師と為し、金光明経一部、般若心経六巻を演説せしめ、雅楽寮の伶人に命じて、楽を作さしむ。帝の近侍の児童、及び良家の稚子を以て、舞人と為す。大唐高麗、更に出でて舞い、新伎散楽、競いてその能を尽くす、此の日宣旨して、苑の四門を開きて都邑の人の出入縦観を聴す。所謂御霊とは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及び観察使橘逸勢、文室宮田麻呂等是れなり。並びに事に坐して誅せられ、冤魂厲と成る、近代以来、疫病死亡甚だ衆し、天下以為らく此の災は御霊の生ずる所なりと。京畿より始まり、爰に外国に及ぶ、夏天秋節に至る毎に、御霊会を修し、往往断えず。或いは仏を礼し経を説き、或いは歌い且つ舞い、童丱の子をして、観粧馳射せしめ、膂力の士、袒裼して相撲し、騎射芸を呈し、走馬勝を争い、倡優嫚戯し、遞いに相誇り競う、聚まりて観る者塡咽せざる莫し。遐邇因循して、漸く風俗と成る。今玆春の初め咳逆疫あり、百姓多く斃る。朝廷為に祈り、是に至りて乃ちこの会を修して以て宿禱に賽ゆるなりとある、これ御霊会と云うことの始めなるべし。むかしは六月十四日の祇園会をも、祇園の御霊会と云いき。そは御霊と云うべきには有らざれども、祭のさまの、同じかりし故に、然云いなせりしなるべし。
現代語訳
同じ『三代実録』に、「貞観五年五月二十日壬午、神泉苑で御霊会を行った。勅して左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行らを遣わして会のことを監督させた。王・公卿・士人が集まってともに見物した。霊座六つの前に机と敷物を設け、花や果物を盛んに並べ、恭しく香をたいて供養した。律師慧達を招いて講師とし、金光明経一部、般若心経六巻を講じさせ、雅楽寮の楽人に命じて音楽を奏させた。帝のそば近く仕える童子と良家の子どもを舞人とした。唐楽と高麗楽が代わる代わる出て舞い、新しい伎楽や散楽が競ってその芸を尽くした。この日宣旨して、苑の四つの門を開き、都の人々が出入りして自由に見物することを許した。いわゆる御霊とは、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)、および観察使橘逸勢、文室宮田麻呂らのことである。いずれも事件に連座して誅せられ、無実の罪で死んだ魂が祟りをなす霊となった。近ごろ疫病がしきりに起こり、死者がたいへん多い。天下の人々は、この災いは御霊が引き起こしたものだと考えた。都と畿内から始まって、ついには地方の国々にまで及び、夏や秋の季節になるたびに御霊会を行い、あちこちで絶えることがない。あるいは仏を拝み経を説き、あるいは歌い舞い、幼い子どもに化粧をさせて馬を走らせて弓を射させ、力の強い者が肌脱ぎして相撲を取り、騎射の芸を見せ、競馬で勝ちを争い、芸人が戯れ演じて互いに誇り競い、集まって見る者で道がふさがらないことはない。遠近でこれにならって、しだいに風俗となった。今年は春の初めから咳の病が流行し、多くの民が倒れた。朝廷はそのために祈り、ここに至ってこの会を行い、かねての祈りにお礼をしたのである」とある。これが御霊会ということの始まりであろう。昔は六月十四日の祇園会も「祇園の御霊会」と言った。それは御霊と言うべきものではないが、祭りの様子が同じであったので、そう言いならわしたのであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 船岡紫野御霊会日本紀略に云う、正暦五年六月廿七日丁未、疫神の為に御霊会を修す、木工寮・修理職、神輿二基を造り、北野船岡山に安置す、僧を屈して仁王経の講説を行わしむ、城中の人、伶人を招きて音楽を奏す、都人士女、特帛を齎し持つ、幾千万人なるを知らず、礼了りて難波の海に送る、此れ朝議に非ず、巷説より起る。また長保三年五月九日、紫野に於いて疫神を祭る、御霊会と号す、天下疾疫に依るなり、是の日以前、神殿三宇・瑞垣等、木工寮・修理職の造る所なり、又御輿は、内匠寮之を造る、京中の上下、多く以て集会す、此の社之を今宮と号す、とあり。朝野群載に、天承二年閏四月八日、散位中原師光の勘文に、正暦五年六月廿七日、疫神を船岡の上に安置せらる、長保三年五月九日、疫神を紫野に安置せらる、京師の衆庶御霊会を行う、件の年年天下静かならず仍て此の儀有り、と見えたり。
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『玉勝間』六の巻 祇園会の山梓同じ記に、同三年六月七日、祇園の祭礼なり、神幸ならびに梓山已下の風流、例のごとく四条大路を渡る者なり。
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『玉勝間』十三の巻 花の宴類聚国史に、弘仁三年二月辛丑、神泉苑に幸し、花樹を覧て、文人に命じて詩を賦せしめ、綿を賜うこと差有り。花宴の節、此に始まるまた同六年二月庚午、神泉苑に幸して花宴す。文人に命じて詩を賦せしめ、侍臣及び文人に綿を賜うこと差有り。
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『玉勝間』三の巻 放生会音楽ノ事同記に、天延二年八月十五日、放生会、宜しく雅楽寮に仰せて、諸節会の音楽に准じて官人唐高麗の楽人舞人等を率いて、今年より、永く彼の会に供せしむべし、又仰せて云う、宜しく左右馬寮に仰せて、十列の御馬各十疋、今年より隔年に彼の会に供奉せしむべし云云、と見えたり。十列は、同記に、天慶五年六月二十一日癸酉、東遊・走馬・十列を祇園に奉る、東西の賊乱の御賽に依るなり、とも見えたり。夫木集和泉式部歌に、「とおづらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆるなりけり。此歌は、祭の日、あるきんだちの、まとのかたを、車の輪に作りたるを見て詠めりと云うと有り。十列源氏物がたりなどにも見えたり。
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『玉勝間』七の巻 祇園の西門の前の大路の在家百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去る夜祇園の西大門の前の大路の在家、南北両面、地を払いて焼亡す、西は橋爪に及び、東は今大路に至り、南は綾小路の末を限る、百数家に及ぶ、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨の天皇の御世なり。
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『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
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