玉勝間 / 四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ
同き十三日、駿河ノ國浮島原を過られけるほど、按察光親ノ卿きのふ殺されぬるよしを聞て、我身も、今日あす必ず失はれなん事を思ひて、黃瀨川うまやにやすまれける程に、筆のついでに、「けふ過る身をうきしまの原にてぞつひの道をば聞さだめつるこれも同じ書にしるせり。此歌のはての句、古今著聞集には、つひの命をまた定めつると有るは、ひが事なるべし。また同書に、嘉禎元年正月廿一日、御願五大堂建立事、相州武州度度巡檢、被撰錄倉中之勝地云云、頗思召煩之處、相當于幕府鬼門方、有此地、毛利藏人大夫入道西阿領也、依爲御祈禱相應之處、被點之、即被引地訖とあり。鬼門ノ方と云ふこと、此頃より見えたり。鬼門と云ふ名は、古きからぶみにも見えたり。
新字:同き十三日、駿河ノ国浮島原を過られけるほど、按察光親ノ卿きのふ殺されぬるよしを聞て、我身も、今日あす必ず失はれなん事を思ひて、黄瀨川うまやにやすまれける程に、筆のついでに、「けふ過る身をうきしまの原にてぞつひの道をば聞さだめつるこれも同じ書にしるせり。此歌のはての句、古今著聞集には、つひの命をまた定めつると有るは、ひが事なるべし。また同書に、嘉禎元年正月廿一日、御願五大堂建立事、相州武州度度巡検、被撰録倉中之勝地云云、頗思召煩之処、相当于幕府鬼門方、有此地、毛利蔵人大夫入道西阿領也、依為御祈祷相応之処、被点之、即被引地訖とあり。鬼門ノ方と云ふこと、此頃より見えたり。鬼門と云ふ名は、古きからぶみにも見えたり。
書き下し
同じき十三日、駿河の国浮島原を過ぎられけるほど、按察光親の卿きのう殺されぬるよしを聞きて、我が身も、今日あす必ず失われなん事を思いて、黄瀬川うまやにやすまれける程に、筆のついでに、「きょう過ぐる身をうきしまの原にてぞついの道をば聞きさだめつる、これも同じ書にしるせり。この歌のはての句、古今著聞集には、ついの命をまた定めつると有るは、ひが事なるべし。また同書に、嘉禎元年正月二十一日、御願の五大堂建立の事、相州・武州度々巡検し、鎌倉中の勝地を撰び録せらる云々、頗る思し召し煩うの処、幕府の鬼門の方に相当りて、この地有り、毛利蔵人大夫入道西阿の領なり、御祈祷相応の処たるに依りて、これを点ぜられ、即ち地を引かれ訖んぬ、とあり。鬼門の方と云うこと、この頃より見えたり。鬼門と云う名は、古きからぶみにも見えたり。
現代語訳
同じ月の十三日、駿河国の浮島原を通り過ぎられるころ、按察使の光親卿が昨日殺されたということを聞いて、自分の身も今日明日には必ず殺されるだろうと思って、黄瀬川の宿駅で休まれた時に、筆のついでに、「今日で終わる身の憂さを、この浮島原で、最期の道を聞き定めたことだ」と詠んだ。これも同じ書に記してある。この歌の終わりの句を、古今著聞集に「ついの命をまた定めつる」としているのは誤りであろう。また同じ書に、「嘉禎元年(1235年)正月二十一日、将軍の御願による五大堂の建立の事について、相模守(北条時房)・武蔵守(北条泰時)がたびたび巡検し、鎌倉中の景勝の地を選んで記録された云々。たいへん思い悩まれたところ、幕府の鬼門の方角に当たってこの地があった。毛利蔵人大夫入道西阿の領地である。御祈祷にふさわしい所であるので、ここを選定され、すぐに土地を整えられた」とある。鬼門の方角ということは、この頃から見える。鬼門という名は、古い漢籍にも見えている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)の使者、京都より参着す、蹴鞠の書一巻を送らる、かの卿去年十二月、紫革の韈を聴さる、宗長朝臣も同じ云々。将軍家諸道を賞翫し給う中に、殊に御意に叶う者は、歌鞠の両芸なり。また同年八月二十九日、去る十六日、仙洞の秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊にこれを賞翫せしめ給う云々。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に進ぜらる、これ内々の勅定に依るなり云々、将軍は実朝の大臣なり。この大臣、公暁にころされ給わむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有りける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すじ抜き給いて、形見とて給わせけり。また庭の梅の花を見給いて、ゆゆしき歌をなん詠み給いける、「出でていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門の入道中納言宗行の卿、とらわれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江の国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書きつけられける。昔南陽軒の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今東海道の菊河、西岸に宿りて命を失う、とぞ書きつけられける。
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『玉勝間』一の巻 清水寺の敬月ほうしが歌の事承久のみだれに、清水寺の敬月法師と云いけるほうし、京の御方にて、官軍にくわわり、宇治におもむきけるを、かたきにとらわれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける。「勅なれば身をば捨ててきもののふの八十宇治川の瀬にはたたねど。かたきこの歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける。この事も同じ書に見ゆ。
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『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事園大暦に云う、貞和三年九月廿五日、今日は竹林院入道左大臣の卅三回の忌辰なり、茲に因りて広義門院、西園寺無量光院の壇場に就きて、御仏事を修せらる、件の朞月の仏事、先規未だ詳らかならず云云、手〓〓を取るに、更に所見無し云云、然れども或いはまた此の事を営む人有るか、予が先妣の此の忌辰、相営む事有り、所詮幽霊の追福、遠近懇志を尽くすの条、孝子の道に叶うべきか、とあり、この論おだやかなり。
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『玉勝間』十三の巻 方違の事同紀に、貞観七年八月廿一日、天皇東宮より遷りて、太政官の曹司庁に御す、来たる十一月、将に内裏に遷御せんとするが為なり。この時に当たりて、陰陽寮言す、天皇の御本命は庚午、是の年の御絶命は乾に在り、東宮より内裏を指すに直に乾なり、故にこれを避くるなり、云云、これいわゆるかたたがえなり。
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『玉勝間』一の巻 北条ノ時頼がいまはの詞同書に、弘長三年十一月廿二日、北条の時頼入道、最明寺におきて身まかりける時の頌とて、業鏡高く懸く、三十七年、一槌に打ち砕きて大道坦然たり、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重とあり。北条・足利の世のほどは、たかきもみじかきも、人みな殊に禅法にまどえりしかば、死なむとするきわに、かかるさとりがましき偽りばかりするを、いみしきわざに思いためり。いとうるさく、かつはおこなるわざなりけり。
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『玉勝間』四の巻 あやめのまくら同じ書に、暦仁元年五月四日、晩に及びて将軍家より、昌蒲の御枕(金銀を鏤む)ならびに御扇等を公家に調進せらる云々。件の御枕は、六位の定役として調進する者なり、而るに御進物を求めらるるの次に依りて、かくの如し云々。あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思い出でねばしるさず。思い出でたらん時に、またもしるすべし。
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