玉勝間 / 十の巻 人の出去し跡を掃ことを忌ム事
人の出ゆきしあとを掃ッ事をいむは、葬の出ぬる跡をはくわざの有る故なり。同記に久壽二年十二月十七日、傳聞、今夜亥刻、高陽院入棺云云、郞奉遷福勝院云云、出御之後、民部大夫重成、以竹箒拂御所。
新字:人の出ゆきしあとを掃ッ事をいむは、葬の出ぬる跡をはくわざの有る故なり。同記に久寿二年十二月十七日、伝聞、今夜亥刻、高陽院入棺云云、郎奉遷福勝院云云、出御之後、民部大夫重成、以竹箒払御所。
書き下し
人の出で行きしあとを掃く事をいむは、葬の出でぬる跡をはくわざの有る故なり。同じ記に久寿二年十二月十七日、伝え聞く、今夜亥の刻、高陽院入棺云々、即ち福勝院に遷し奉る云々、出御の後、民部大夫重成、竹箒を以て御所を払う。
現代語訳
人が出て行った後を掃くことを忌むのは、葬送の出た後を掃く習わしがあるからである。同じ記(台記)に、「久寿二年十二月十七日、伝え聞くところでは、今夜亥の刻(午後十時頃)、高陽院(藤原泰子)の入棺があった云々。すぐに福勝院にお移し申し上げた云々。御出棺の後、民部大夫重成が竹箒で御所を掃き清めた」とある。
解説
人が出かけた直後にその跡を掃いてはいけない、という俗信の由来を古記録に求めた段である。宣長は、葬送で棺が家を出た後に跡を掃き清める習わしがあったために、生きている人が出て行った跡を掃くと、その人を死者として送り出すことになって縁起が悪いとされたのだと説く。証として、台記に記された鳥羽上皇の皇后高陽院の葬送の記事を引く。入棺して福勝院に移した後、役人が竹箒で御所を掃き払ったという。日常のささいな禁忌の背後に死者を送る儀礼が隠れていることを、平安の貴族の日記で裏づけたのである。宣長は民間の習俗を迷信と切り捨てず、その起こりを古い習わしの中に探った。身近な「してはいけないこと」の由来を知ると、それが昔の人の死生観の名残であることが分かる。
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