玉勝間 / 十三の巻 更衣
同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇朝-覲太上天皇及、太皇太后宮於嵯峨院、云云、是日、詔授從五位下秋篠朝臣康子、正五位下、无位山田宿禰近子、從五位上、並太上天皇更衣也。と見ゆ。この更衣と云ふ物は、いづれの御代のころより有リそめけむ。物に見えたる事は、これ始ノなり。そもそも後宮、職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの號は絕て、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代實錄六の卷に光孝天皇ノ更衣と云ふことも見え、また仁和三年には、勅。以更衣從五位上藤原朝臣元善、爲女御、中納言從三位山陰之女也とも見えたり。
新字:同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇朝-覲太上天皇及、太皇太后宮於嵯峨院、云云、是日、詔授従五位下秋篠朝臣康子、正五位下、无位山田宿祢近子、従五位上、並太上天皇更衣也。と見ゆ。この更衣と云ふ物は、いづれの御代のころより有リそめけむ。物に見えたる事は、これ始ノなり。そもそも後宮、職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの号は絶て、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代実録六の巻に光孝天皇ノ更衣と云ふことも見え、また仁和三年には、勅。以更衣従五位上藤原朝臣元善、為女御、中納言従三位山陰之女也とも見えたり。
書き下し
同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇太上天皇及び、太皇太后宮に嵯峨院に朝覲す、云云、是の日、詔して従五位下秋篠朝臣康子に、正五位下、无位山田宿禰近子に、従五位上を授く、並びに太上天皇の更衣なり。と見ゆ。この更衣と云う物は、いずれの御代のころより有りそめけむ。物に見えたる事は、これ始めなり。そもそも後宮職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの号は絶えて、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代実録六の巻に光孝天皇の更衣と云うことも見え、また仁和三年には、勅す。更衣従五位上藤原朝臣元善を以て、女御と為す、中納言従三位山陰の女なりとも見えたり。
現代語訳
同じ『続日本後紀』に、「承和九年正月三日、仁明天皇が嵯峨院に太上天皇(嵯峨上皇)と太皇太后を訪ねて拝礼された云々。この日、詔して従五位下秋篠朝臣康子に正五位下を、無位の山田宿禰近子に従五位上を授けた。二人とも太上天皇の更衣である」と見える。この「更衣」というものは、どの御代の頃から置かれ始めたのであろうか。書物に見えるのは、これが最初である。そもそも後宮職員令には、「妃二人、右は四品以上。夫人三人、右は三位以上。嬪四人、右は五位以上」と宮人の定めがあるのに、中古以後はこれらの称号は絶えて、おおよそ妃・夫人にあたるほどの者を女御とし、嬪にあたるほどの者を更衣とされた。『三代実録』巻六に「光孝天皇の更衣」ということも見え、また仁和三年には「勅して、更衣従五位上藤原朝臣元善を女御とする。中納言従三位山陰の娘である」とも見えている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』十三の巻 女御女御と云う班を確かに定められたるは、何れの御世の頃よりのことにか有りけむ。雄略天皇の御世の稚媛を、始めと云うは、ひがことなり。書紀のかの御巻に女御とあるは、ただ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ実にこの号ありしにはあらず。すべてかの紀は、かかる文字につきて後の人の思いまどう事多きぞかし。そもそも女御と云うは、もと漢国にて、王の御す女をひろく云える目にて、一つ定まれる号にはあらず。皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなには成れるなり。かの雄略紀なるも、ただ御す女とし給えるよしなり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御然るを師も、この俗称にまどわれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人々思えるは、その証有りや、と云われたる、これかえりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ちその証ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云うことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその証なるを、かえりてこれらを、転々して俗語のままに書けるなりと云い、かの古今集をさえ疑いて、さは申すまじき事なりとて、いたく強いたる考えを、あげられたるは、いかにぞや。これかえりて、みずからかの後の世の俗称にまどわれたるものなり。古えに東宮の妃を、御息所と申せる証ありや。有る事無し。その体と思われたるは、六条の御息所なるを、これ又かのまどいの心得たがいなり。その故は、かの六条の御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生み給いて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生み給えるを、然か申すと同じ事なるをや。
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