玉勝間 / 十三の巻 大炊殿を洞院と改めらるる事
天永三年十月十三日、遷幸大炊殿之由、奉幣宣命、改大炊御門字爲洞院、炊字從火之上、大炊爲廢帝諱字之故也、と同書に見えたり。
新字:天永三年十月十三日、遷幸大炊殿之由、奉幣宣命、改大炊御門字為洞院、炊字従火之上、大炊為廃帝諱字之故也、と同書に見えたり。
書き下し
天永三年十月十三日、大炊殿に遷幸の由、奉幣宣命、大炊御門の字を改めて洞院と為す、炊の字火に従うの上、大炊は廃帝の諱の字なるが故なり、と同書に見えたり。
現代語訳
「天永三年十月十三日、大炊殿に遷幸されたことを告げる奉幣の宣命で、大炊御門の字を改めて洞院とした。『炊』の字が火偏であるうえに、大炊は廃帝(淳仁天皇)の諱の字だからである」と、同じ書(百練抄)に見えている。
解説
天皇が大炊殿という御所に移ったとき、神に奉る宣命の中では「大炊」の字を避けて「洞院」と書き改めたという記録を写した段である。理由は二つあり、「炊」の字に火が含まれていて火災を連想させること、そして「大炊」が、藤原仲麻呂の乱の後に廃された淳仁天皇の名(大炊王)であったことである。前の段の神鏡の焼損に続いて、火を忌む心がここにも表れている。また、廃された天皇の名を神への文書で用いるのをはばかったのは、平城天皇の諱の段と同じ避諱の慣わしである。文字一つにも縁起の良し悪しを見て慎重に言い換えた古人の感覚は、今でも祝いの席で忌み言葉を避ける習慣に受け継がれている。
関連する章句
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