玉勝間 / 六の巻 祇園会の山梓
同記に、同三年六月七日、祇園祭禮也、神幸并梓山已下風流、如例渡四條大路者也。
新字:同記に、同三年六月七日、祇園祭礼也、神幸并梓山已下風流、如例渡四条大路者也。
書き下し
同じ記に、同三年六月七日、祇園の祭礼なり、神幸ならびに梓山已下の風流、例のごとく四条大路を渡る者なり。
現代語訳
同じ康富記に「嘉吉三年六月七日、祇園の祭礼である。神輿の渡御ならびに梓山以下の風流が、例年のとおり四条大路を渡った」とある。
解説
祇園祭の山鉾の巡行が室町時代にも例年どおり行われていたことを、康富記から示した短い一段である。嘉吉三年(1443)六月七日の条に、神輿の渡御と山などの風流が、例のごとく四条大路を渡ったとある。風流とは、趣向を凝らした飾り物や仮装、囃子をいう。祇園祭は平安時代の御霊会に始まり、室町時代には町衆が山鉾を出して華やかに行うようになった。宣長の時代にも祇園会は京の最大の祭りであった。宣長は、今見る祭りの姿がいつごろまでさかのぼれるかを、確かな記録で押さえようとした。「例のごとく」の一語に、すでにその時代に長い伝統があったことが表れている。
関連する章句
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