玉勝間 / 三の巻 放生会音楽ノ事
同記に、天延二年八月十五日、放生會、宜仰雅樂寮、准諸節會音樂官人率唐高麗樂人舞人等、從今年、永供彼會者、又仰云、宜仰左右馬寮、十列御馬各十疋、從今年隔年令供奉彼會者云云、と見えたり。十列は、同記に、天慶五年六月二十一日癸酉、奉東遊走馬十列於祇園、依東西賊亂御賽也、とも見えたり。夫木集和泉式部歌に、「とをづらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆるなりけり。此歌は、祭の日、あるきんだちの、まとのかたを、車の輪に作りたるを見て詠めりと云ふと有り。十列源氏物がたりなどにも見えたり。
新字:同記に、天延二年八月十五日、放生会、宜仰雅楽寮、准諸節会音楽官人率唐高麗楽人舞人等、従今年、永供彼会者、又仰云、宜仰左右馬寮、十列御馬各十疋、従今年隔年令供奉彼会者云云、と見えたり。十列は、同記に、天慶五年六月二十一日癸酉、奉東遊走馬十列於祇園、依東西賊乱御賽也、とも見えたり。夫木集和泉式部歌に、「とをづらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆるなりけり。此歌は、祭の日、あるきんだちの、まとのかたを、車の輪に作りたるを見て詠めりと云ふと有り。十列源氏物がたりなどにも見えたり。
書き下し
同記に、天延二年八月十五日、放生会、宜しく雅楽寮に仰せて、諸節会の音楽に准じて官人唐高麗の楽人舞人等を率いて、今年より、永く彼の会に供せしむべし、又仰せて云う、宜しく左右馬寮に仰せて、十列の御馬各十疋、今年より隔年に彼の会に供奉せしむべし云云、と見えたり。十列は、同記に、天慶五年六月二十一日癸酉、東遊・走馬・十列を祇園に奉る、東西の賊乱の御賽に依るなり、とも見えたり。夫木集和泉式部歌に、「とおづらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆるなりけり。此歌は、祭の日、あるきんだちの、まとのかたを、車の輪に作りたるを見て詠めりと云うと有り。十列源氏物がたりなどにも見えたり。
現代語訳
同じ『日本紀略』に「天延二年八月十五日、放生会。雅楽寮に命じて、諸節会の音楽に準じて、官人が唐楽・高麗楽の楽人・舞人らを率い、今年から永くその会に奉仕させよ。また仰せて言う、左右馬寮に命じて、十列(とおつら)の御馬をそれぞれ十頭、今年から隔年でその会に奉仕させよ云々」と見える。十列は、同じ書に「天慶五年六月二十一日癸酉、東遊・走馬・十列を祇園社に奉った。東西の賊の乱が鎮まったことへのお礼参りによるのである」とも見える。『夫木和歌抄』の和泉式部の歌に「十列の馬ではないけれど、あなたの乗る車も(的の形をしていて)まと(馬と)に見えることだ」とある。この歌は、祭の日にある貴公子が的の形を車の輪に作ったのを見て詠んだという、とある。十列は源氏物語などにも見える。
解説
関連する章句
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