玉勝間 / 七の巻 祇園の西門の前の大路の在家
百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去夜祇園西大門前大路在家、南北兩面、拂地燒亡、西及橋爪、東至今大路、南限綾小路末、及百數家、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨ノ天皇の御世なり。
新字:百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去夜祇園西大門前大路在家、南北両面、払地焼亡、西及橋爪、東至今大路、南限綾小路末、及百数家、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨ノ天皇の御世なり。
書き下し
百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去る夜祇園の西大門の前の大路の在家、南北両面、地を払いて焼亡す、西は橋爪に及び、東は今大路に至り、南は綾小路の末を限る、百数家に及ぶ、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨の天皇の御世なり。
現代語訳
百練抄に、「寛元元年正月四日(辛巳)、昨夜、祇園社の西大門の前の大路の民家が、南北両側ともすっかり焼けた。西は橋のたもとまで、東は今大路まで、南は綾小路の末までで、百数十軒に及んだ」と見える。これは今の祇園町のところである。その頃から早くも家が多かったと見える。後嵯峨天皇の御代である。
解説
鎌倉時代の史書『百練抄』から、祇園社の門前町の火事の記事を書き抜いた段である。寛元元年の正月、祇園社西大門前の大路の両側の家々が焼け、その数は百軒余りに及んだという。宣長の関心は火事そのものより、鎌倉中期にすでに祇園の門前にそれだけの家が立ち並んでいたという事実にある。今の祇園の町並みの起こりが、七百年以上前にさかのぼることを示しているのである。社寺の門前に参詣者相手の家が集まり、町が形づくられていく過程は、日本の都市の成り立ちの典型の一つである。宣長は若い頃、京都で医学を学び、祇園のあたりもよく知っていた。見知った町の古い姿を古記録の中に見つける楽しみが、この短い書き抜きからうかがえる。災害の記録が、町の歴史の証言にもなるのである。
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