玉勝間 / 十三の巻 御世御世に用ひ給ひし暦の事
三代實錄に、貞觀三年六月十六日、始。行-行長慶宣明曆經。先是陰陽頭從五位下兼行曆博士大春日朝臣眞野麻呂奏言。謹撿豐御食炊屋姬天皇十年十月、百濟國僧觀勒始貢曆術、而未行於世、高天原廣野姫天皇四年十二月、有勅始用元嘉曆。次用儀鳳曆。高野姬天皇天平寶字七年八月、停儀鳳曆、用開元大衍曆。厭後寶龜十一年、遣唐使錄事故從五位下行內藥正羽栗臣翼、貢寶應五紀曆經云、大唐今停大衍曆、唯用此經。天應元年、有勅令據彼經造曆日、無人習學、不得傳業猶用大衍曆經、已及百年。眞野麻呂、去齊衡三年、申請用彼五紀曆、朝庭議云、國家據大衍經造曆日尙矣、去聖已遠、義貴兩存、宜暫相兼不得偏用。貞觀元年、渤海國大使烏孝愼、新貢長慶宣明曆經、云是大唐新用經也。眞野麻呂試加覆勘、理當固然。仍以彼新曆、比校大衍五紀等兩經、且察天文、且參時候、大中兩經之術漸以麁疎。令朔節氣、旣有差、又勘大唐開成四年天平十二年等曆、不復與彼新曆相違。曆議曰、陰陽之運、隨動而差、差而不已、遂與曆錯者。方今大唐開元以來、三改曆術。本朝天平以降、猶用一經、靜言事理、實不可然、請停舊用新、欽若天歩、詔從之と見えて、此時より、件の宣明曆を用ひられて、ちかき世貞享まで、八百餘年、改めらるる事無かりき。
新字:三代実録に、貞観三年六月十六日、始。行-行長慶宣明暦経。先是陰陽頭従五位下兼行暦博士大春日朝臣真野麻呂奏言。謹撿豊御食炊屋姫天皇十年十月、百済国僧観勒始貢暦術、而未行於世、高天原広野姫天皇四年十二月、有勅始用元嘉暦。次用儀鳳暦。高野姫天皇天平宝字七年八月、停儀鳳暦、用開元大衍暦。厭後宝亀十一年、遣唐使録事故従五位下行内薬正羽栗臣翼、貢宝応五紀暦経云、大唐今停大衍暦、唯用此経。天応元年、有勅令拠彼経造暦日、無人習学、不得伝業猶用大衍暦経、已及百年。真野麻呂、去斉衡三年、申請用彼五紀暦、朝庭議云、国家拠大衍経造暦日尚矣、去聖已遠、義貴両存、宜暫相兼不得偏用。貞観元年、渤海国大使烏孝慎、新貢長慶宣明暦経、云是大唐新用経也。真野麻呂試加覆勘、理当固然。仍以彼新暦、比校大衍五紀等両経、且察天文、且参時候、大中両経之術漸以麁疎。令朔節気、既有差、又勘大唐開成四年天平十二年等暦、不復与彼新暦相違。暦議曰、陰陽之運、随動而差、差而不已、遂与暦錯者。方今大唐開元以来、三改暦術。本朝天平以降、猶用一経、静言事理、実不可然、請停旧用新、欽若天歩、詔従之と見えて、此時より、件の宣明暦を用ひられて、ちかき世貞享まで、八百余年、改めらるる事無かりき。
書き下し
三代実録に、貞観三年六月十六日、始めて長慶宣明暦経を行う。是より先陰陽頭従五位下兼行暦博士大春日朝臣真野麻呂奏言す。謹んで検ずるに豊御食炊屋姫天皇十年十月、百済国の僧観勒始めて暦術を貢ぐ、而れども未だ世に行われず、高天原広野姫天皇四年十二月、勅有りて始めて元嘉暦を用う。次に儀鳳暦を用う。高野姫天皇天平宝字七年八月、儀鳳暦を停め、開元大衍暦を用う。厥の後宝亀十一年、遣唐使録事故従五位下行内薬正羽栗臣翼、宝応五紀暦経を貢ぎて云う、大唐今大衍暦を停め、ただこの経を用うと。天応元年、勅有りて彼の経に拠りて暦日を造らしむ、人の習学する無く、業を伝うるを得ず猶大衍暦経を用う、已に百年に及ぶ。真野麻呂、去る斉衡三年、彼の五紀暦を用いんことを申請す、朝庭議して云う、国家大衍経に拠りて暦日を造ること尚し、聖を去ること已に遠し、義は両存を貴ぶ、宜しく暫く相兼ねて偏えに用うるを得ざるべしと。貞観元年、渤海国の大使烏孝慎、新たに長慶宣明暦経を貢ぎて、云う是れ大唐新たに用うる経なりと。真野麻呂試みに覆勘を加うるに、理当に固より然るべし。仍りて彼の新暦を以て、大衍五紀等の両経に比校し、且つは天文を察し、且つは時候に参うるに、大中の両経の術漸く以て麁疎なり。令朔節気、既に差有り、又大唐の開成四年天平十二年等の暦を勘うるに、復た彼の新暦と相違わず。暦議に曰く、陰陽の運、動に随いて差う、差いて已まず、遂に暦と錯うと。方今大唐開元以来、三たび暦術を改む。本朝天平以降、猶一経を用う、静かに事理を言えば、実に然るべからず、請うらくは旧を停めて新を用い、欽んで天歩に若わんことを、詔してこれに従うと見えて、この時より、件の宣明暦を用いられて、ちかき世貞享まで、八百余年、改めらるる事無かりき。
現代語訳
『三代実録』に、「貞観三年六月十六日、初めて長慶宣明暦経を施行した。これより先、陰陽頭従五位下兼行暦博士大春日朝臣真野麻呂が奏上して言った。『謹んで調べると、推古天皇の十年十月に、百済国の僧観勒が初めて暦の術を献上したが、まだ世には行われなかった。持統天皇の四年十二月に、勅があって初めて元嘉暦を用い、次に儀鳳暦を用いた。孝謙(称徳)天皇の天平宝字七年八月に儀鳳暦をやめ、開元大衍暦を用いた。その後、宝亀十一年に遣唐使の録事で故従五位下行内薬正の羽栗臣翼が宝応五紀暦経を献上して、唐では今は大衍暦をやめ、ただこの経だけを用いていると言った。天応元年に勅があって、その経によって暦を作らせましたが、習い学ぶ者がなく、術を伝えることができず、なお大衍暦経を用いて、すでに百年に及んでいる。私真野麻呂は去る斉衡三年に、その五紀暦を用いるよう申請したが、朝廷は議して、国家が大衍暦経によって暦を作ってきたのは久しく、聖人の時代からすでに遠い、道理は両方を存することを貴ぶので、しばらく両方を兼ね用いて、一方だけを用いてはならない、と言った。貞観元年、渤海国の大使烏孝慎が新たに長慶宣明暦経を献上し、これは唐が新たに用いている暦だと言った。私真野麻呂が試みに検討を加えると、その理はまことにもっともである。そこでその新暦を大衍・五紀の両暦と比べ、一方では天体を観察し、一方では季節の移り変わりに照らしてみると、大衍・五紀の両暦の術はしだいに粗くなっている。朔や節気にすでにずれがあり、また唐の開成四年、わが天平十二年などの暦を調べると、やはりその新暦と違わない。暦議に言う、陰陽の運行は動くにつれてずれ、ずれてやまなければ、ついには暦と食い違う、と。今、唐では開元以来三度暦術を改めているが、わが国では天平以降なお一つの暦を用いている。静かに道理を言えば、実にそうあってはならない。願わくは古い暦をやめて新しい暦を用い、謹んで天の運行に従いたい』。詔してこれに従った」と見えて、この時から、その宣明暦を用いられて、近い世の貞享まで、八百余年の間改められることがなかった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 かなごよみ同じ物語に、かな暦と云う事あり、昔は真名と仮字との暦有りしにや。さて又暦に、神仏に善しと云う日あり。今の暦本に、神よしとしるせるは、是れなるべし。又かん日くえ日など、日の善き悪しきをしるせる事も見えたり。
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『玉勝間』十の巻 改年号西宮記に云う、年号を改むるには、大臣勅を奉りて、文章博士に仰せて、年号を勘申せしめ、奏聞し、勘定の後、内記に仰せて詔書を作らしめ、草及び清書を奏し、御画日を賜い、中務に下す、中務案を太政官に度し、太政官連暑し、(○署カ)大納言覆奏し畢りて、施行の官符を下す、云々。
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『玉勝間』一の巻 わたくしに記せる史世におおやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれと多かるを、昔の皇国人は、仏を尊ばぬは一人も無かりしかば、斯かる書にさえ、ともすればようなき仏ざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたわらいたき事多し。またさかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいといて、多くは神武天皇より始めてしるして、神代の程をばはぶけるは、から国のむねむねしき書に、さるたぐいの有るを、善き事と思いて、ならえる物なり。そもそも外国々は、その王のすじ、定まれる事無くして、世々に変われば、心にまかせて、いづれの代より記さむも難無きを、御国の皇統は、さらに外国の王のたぐいにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地と共に、とこしえに伝わらせ給うを、その本の始めをはぶき捨てて、なからより記して善からめや。万づをから国にならうも、事によりては、心すべきわざぞかし。
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『玉勝間』十三の巻 唐法に依べき詔書の事同紀に、承和九年、文章博士従三位菅原朝臣清公薨ず、その伝に、弘仁九年、詔書有り、天下の儀式、男女の衣服、皆唐法に依り、五位已上の位記、改めて漢様に従い、諸宮殿院堂門閣、皆新額を着け、又百官の舞踏を肄う、此の如き朝儀、並びに関説を得、と見えたる、この事国史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔して曰く云云、その朝会の礼、及び常に取服する者、又卑の貴に逢いて跪く等、男女を論ぜず、改めて唐法に依れ。但し五位已上の礼服、諸の朝服の色、衛仗の服、皆旧例に縁りて、改張すべからずと有り。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給いしみかどにぞおわしましける。
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『玉勝間』十三の巻 御仏名のはじまり同紀に承和五年十二月乙酉朔己亥、天皇清涼殿に於いて、仏名懺悔を修す。限るに三日三夜を以てす。律師静安、大法師願安実敏願定道昌等、遞いに導師と為る。内裏の仏名懺悔、此より始まると見ゆ。然るに一代要記に、淳和天皇の御世より始まると云い、公事根源に、宝亀五年よりと云えるなどは、ひがことなるべし。三代実録に貞観十八年六月廿一日丙寅、一万三千の仏像、二十九鋪、各広さ五幅、高さ一丈六尺、東海山陰南海、三道の諸国に分かち置く。国別に一鋪。是より先元興寺の僧賢護牒解を申す。先師故律師伝灯大法師位静安、承和年中、国家に勧め奉り、仏名を礼拝し、始めて内裏に行い、漸く人間に遍く、遂に諸国に詔して並びに勤修せしむ。云云、望み請うらくは、内裏及び諸国に分かち置き、御願懺悔の会に至る毎に、真容を展張し、前に於いてこれを修せんことを、その請う所を許す。
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『玉勝間』六の巻 天皇の御前に直に訴を申せし事春記に云う、長暦四年、十月二十二日、今日初めて〓内大臣の二条第に遷る、云云。今夕行幸の間、東院の東の大路、神解小路の辺に於て、宇佐宮の下部(月来の訴人なり、件の愁人、申文を取らる、但し未だ裁許を省みず、愁え命を見る者なり)、一々、衣冠を著し、御輿の右方に進み寄り、音を挙げて訴訟を致すの間、希有の事なり。右将等追却せざるを為す、不覚の者等なり。予追却せしめ了んぬ。須く搦め捕うべし、然れども新所に行幸するの間なり、左右憚り有るなり、故に搦めしめざるなり。事尤も非常なり、云云。また、同年十二月二十五日、平野行幸の日なり、云云。今夕還御の間、東洞院二条の辺にて和泉国の百姓、文を捧げ音を挙げて、愁訴を成す、云云。行経追却せしめず、如何。この事度々に及ぶ、なお召し禁めらるべきなり、云云と見えたり。いともかしこき御前に、ただにうったえごと申せるは、いとめずらし。長暦は、後朱雀天皇の御世なり。春記は、春宮の大夫資房の卿の日記なり。
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