玉勝間 / 三の巻 船岡紫野御霊会
日本紀略云、正曆五年六月廿七日丁未、爲疫神修御靈會、木工寮修理職、造神輿二基、安置北野船岡山、屈僧令行仁王經之講說、城中之人、招伶人奏音樂、都人士女、齎持特帛、不知幾千萬人、禮了送難波海、此非朝議、起自巷說。また長保三年五月九日、於紫野祭疫神、号御靈會、依天下疾疫也、是日以前、神殿三宇瑞垣等、木工寮修理職所造也、又御輿、內匠寮造之、京中上下、多以集會、此社号之今宮、とあり。朝野群載に、天承二年閏四月八日、散位中原師光勘文に、正曆五年六月廿七日、被安置疫神於船岡上、長保三年五月九日、被安置疫神於紫野、京師衆庶行御靈會件年年天下不靜仍有此儀、と見えたり。
新字:日本紀略云、正暦五年六月廿七日丁未、為疫神修御霊会、木工寮修理職、造神輿二基、安置北野船岡山、屈僧令行仁王経之講説、城中之人、招伶人奏音楽、都人士女、齎持特帛、不知幾千万人、礼了送難波海、此非朝議、起自巷説。また長保三年五月九日、於紫野祭疫神、号御霊会、依天下疾疫也、是日以前、神殿三宇瑞垣等、木工寮修理職所造也、又御輿、内匠寮造之、京中上下、多以集会、此社号之今宮、とあり。朝野群載に、天承二年閏四月八日、散位中原師光勘文に、正暦五年六月廿七日、被安置疫神於船岡上、長保三年五月九日、被安置疫神於紫野、京師衆庶行御霊会件年年天下不静仍有此儀、と見えたり。
書き下し
日本紀略に云う、正暦五年六月廿七日丁未、疫神の為に御霊会を修す、木工寮・修理職、神輿二基を造り、北野船岡山に安置す、僧を屈して仁王経の講説を行わしむ、城中の人、伶人を招きて音楽を奏す、都人士女、特帛を齎し持つ、幾千万人なるを知らず、礼了りて難波の海に送る、此れ朝議に非ず、巷説より起る。また長保三年五月九日、紫野に於いて疫神を祭る、御霊会と号す、天下疾疫に依るなり、是の日以前、神殿三宇・瑞垣等、木工寮・修理職の造る所なり、又御輿は、内匠寮之を造る、京中の上下、多く以て集会す、此の社之を今宮と号す、とあり。朝野群載に、天承二年閏四月八日、散位中原師光の勘文に、正暦五年六月廿七日、疫神を船岡の上に安置せらる、長保三年五月九日、疫神を紫野に安置せらる、京師の衆庶御霊会を行う、件の年年天下静かならず仍て此の儀有り、と見えたり。
現代語訳
『日本紀略』に「正暦五年六月二十七日丁未、疫神のために御霊会を行った。木工寮と修理職が神輿二基を造り、北野の船岡山に安置した。僧を招いて仁王経の講説を行わせた。都の人々は楽人を招いて音楽を奏した。都の男女が幣帛を持って集まり、その数は幾千万人か分からない。祭礼が終わると、神輿を難波の海へ送った。これは朝廷の評議によるものではなく、巷の声から起こったものである」とある。また「長保三年五月九日、紫野で疫神を祭り、御霊会と称した。天下に疫病が流行したためである。この日より前に、神殿三宇や瑞垣などを木工寮と修理職が造った。また神輿は内匠寮が造った。京中の上下の人々が大勢集まった。この社を今宮と称する」とある。『朝野群載』には、天承二年閏四月八日の散位中原師光の勘文(調べて上申した文書)に「正暦五年六月二十七日、疫神を船岡の上に安置された。長保三年五月九日、疫神を紫野に安置された。都の民衆が御霊会を行った。それらの年々は天下が静かでなかったので、この儀があった」と見える。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十三の巻 御霊会同紀に、貞観五年五月廿日壬午、神泉苑に於いて、御霊会を修す、勅して左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等を遣わし、会の事を監せしむ、王公卿士、赴き集まりて共に観る、霊座六前、几筵を設け施し、盛んに花菓を陳ね、恭敬薫修す。律師慧達を延きて、講師と為し、金光明経一部、般若心経六巻を演説せしめ、雅楽寮の伶人に命じて、楽を作さしむ。帝の近侍の児童、及び良家の稚子を以て、舞人と為す。大唐高麗、更に出でて舞い、新伎散楽、競いてその能を尽くす、此の日宣旨して、苑の四門を開きて都邑の人の出入縦観を聴す。所謂御霊とは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、及び観察使橘逸勢、文室宮田麻呂等是れなり。並びに事に坐して誅せられ、冤魂厲と成る、近代以来、疫病死亡甚だ衆し、天下以為らく此の災は御霊の生ずる所なりと。京畿より始まり、爰に外国に及ぶ、夏天秋節に至る毎に、御霊会を修し、往往断えず。或いは仏を礼し経を説き、或いは歌い且つ舞い、童丱の子をして、観粧馳射せしめ、膂力の士、袒裼して相撲し、騎射芸を呈し、走馬勝を争い、倡優嫚戯し、遞いに相誇り競う、聚まりて観る者塡咽せざる莫し。遐邇因循して、漸く風俗と成る。今玆春の初め咳逆疫あり、百姓多く斃る。朝廷為に祈り、是に至りて乃ちこの会を修して以て宿禱に賽ゆるなりとある、これ御霊会と云うことの始めなるべし。むかしは六月十四日の祇園会をも、祇園の御霊会と云いき。そは御霊と云うべきには有らざれども、祭のさまの、同じかりし故に、然云いなせりしなるべし。
-
『玉勝間』三の巻 また四界四角ノ祭西宮記に云う、四界祭、陰陽寮四界に向いて祭る、蔵人所の人を以て使と為す、四角祭、陰陽寮、宮城の四角に祭る、使有り所の人、以上天下に疫有るの時、陰陽寮支度を進る、(料物は官、宣)。
-
『玉勝間』七の巻 祈年祭の猪の事同記に、仁平元年二月四日、右少弁資長申す、祈年祭の猪、近江国未進てえり、云々、九日、庚戌、近江の目代俊弘申して云う、郡司申して云う、祭の前十余日、狩れども、猪之を得ず、連日狩猟すれども、今に得ること無し、先例かくのごときの時、代物を用う、先ず即ち北山抄の四を見るに、承平四年六月の月次祭に、馬の代に調布を進る、(八端)彼の例に任せて、調布八端を以て、猪の代と為すべきの由仰せ了んぬ、同じ趣を以て史に仰すと見ゆ。祈年祭の猪とは、御年神に、白猪を進らるる事なり。古書どもに見えたり。
-
『玉勝間』六の巻 神今食神今食は、じんこんじきと、字音にのみ唱え来たりて、正しくはいかに唱うべきにか、昔よりさだも無く、知れる人無し。書紀の私記に、古は神今木と謂いしよし見えたるによりて、じんこんけとも唱うれども、上二字はなおもじごえなり。これによりてつらつらこの名を考うるに、加牟伊麻気と唱うべきなり。そは神は、神嘗祭などの神に同じく、今は新の意なり。すべて新たに物したるを、今某と云うこと多し。古、漢の国より新たに参来つる人どもを、今来の漢人と云いて、書紀に新漢と見え、大かたもあらたに参れる人を、今参りと云う類なり。さて今食と云うは、俗言に、稲を粟にてたくわえ置きたるを、新たに磨りて、米にしたるを、今ずりと云う。その意にて、新磨の御食と云う事なるべし。古に今毛人と云う人の名の見えたるも、今食と云う事の有りしによれる名なるべし。かくてこの神今食は、年毎の六月と十二月との十一日にて、月次祭の同じ日の夜に行わるる事なり。まずその月次祭は、三百四座の神たちに、幣帛を奉り給う。
-
『玉勝間』十三の巻 神社にてほうしをして仏の経をよましむる事同紀に、斉衡元年四月、伝灯大法師位智戒興智真秀、伝灯法師位明昭玄永、伝灯満位僧基蔵基秀を遣わし、七道諸国の名神社に向かい、般若を転読せしむ、民の福を祈るなり。また同三年九月、僧を賀茂松尾大神社に請い、金剛般若経を読ましむ、三日を限りて訖う。また天安元年五月にも、同じ事あり。すべてかかるたぐいの事は、いかなる事にか有りけむ。
-
『玉勝間』八の巻 祭に臨みて神主を定むる事左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る