玉勝間 / 十三の巻 しちすつの濁音の事
土佐ノ國の人の言には、しとちと、すとつとのにごり聲、おのづからよく分れて、混ふ事無し。さればわづかにいろはもじを書く程の童といへども、此假字をば、書キ誤ること無し、とかの國人かたれり。
新字:土佐ノ国の人の言には、しとちと、すとつとのにごり声、おのづからよく分れて、混ふ事無し。さればわづかにいろはもじを書く程の童といへども、此仮字をば、書キ誤ること無し、とかの国人かたれり。
書き下し
土佐の国の人の言には、しとちと、すとつとのにごり声、おのずからよく分かれて、混うる事無し。さればわずかにいろはもじを書く程の童といえども、この仮字をば、書き誤ること無し、とかの国人かたれり。
現代語訳
土佐の国の人の言葉では、「し」と「ち」、「す」と「つ」の濁音(じ・ぢ、ず・づ)が自然とよく区別されていて、混同することがない。だから、やっといろは文字を書けるくらいの子どもでも、これらの仮名を書き誤ることがない、とその国の人が語った。
解説
「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の区別、いわゆる四つ仮名について、土佐の方言では発音がはっきり分かれているという話を書き留めた段である。古くはこれらは別の音であったが、室町時代ごろから京都などで区別が失われ、仮名遣いを誤る原因となった。宣長は仮名遣いの研究に力を注ぎ、古い文献に基づいて正しい仮名遣いを明らかにしようとしていた。土佐のように古い発音の区別が残っている地方があれば、子どもでも耳で聞いたとおりに正しく書けるというのは、仮名遣いがもともと実際の発音に基づいていた証拠となる。方言に古い日本語の姿が保たれているという宣長の見方を裏づける報告である。実際に高知方言には今もこの区別が残るとされる。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事一つ二つにては、なお混いつるかの疑いもあらむを、いとあまた見えたる、皆同じきをもて、古えは清みつる事を知るべし。その外の言にも、このたぐいいと多し。古書を考えこころみて、皆なずらえ知るべし。然るに古書を読み、古言を唱うるに、古書のかなには従わずして、今のならいになづみて、濁るべきを清み、濁るまじきを濁りなど、わたくしに定めて読むは、いとみだりなるわざなり。古書を読まむには、古書のかなの清濁にこそ従うべきわざなれ。そもそもおのれ、この清濁の、古と今とかわれる事に心つきて、いかで今のならいにかかわらず、古書のかなに従わばやと、早くより思う事にて、すでに古事記伝の初めの巻にも云いつれども、いとま無くて、もろもろのことばの清濁を、あまねく考えわたす事あたわずして、いと口惜しく思いわたれば、友だちにもこの事つねに語りけるに、おのが教えの子に、遠江の国ふちの郡細田村の人、石塚の龍麻呂なん、この事に心おこして、古書どもを、あまねく委しく考えわたして、この近きほど、古言清濁考と云うふみをあらわしたりける。
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『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事古えことばの清濁を考うるに、今の世に云うとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云うに、古事記・書紀・万葉は、かな遺いいと正しくして、清濁をも分けて書きたれば、これらの書によりて知るべし。この三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に万葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混いたるも多けれど、なべてはよく分かれたり。万葉は混いすくなし。古事記は、まがいたるはおさおさ見えず。たがえるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思えば、後に写し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云うとは、ことなるも多きを、人皆、通わし書きたりと思い、あるは混いたるなりと思い、あるは濁る音には、清音の字をも書ける例なり、など思いおるは、くわしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古と今と、云う言の清濁のかわれるなり。然か云う故は、たとえば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて読みならえれども、この仮字、古事記にも書紀にも出で、万葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用いて、濁音を用いたる事無し。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』七の巻 ゐなかに古への雅言ののこれる事すべて田舎には、古の言の残れること多し、殊に遠き国人の云う言の中には、面白き事どもぞまじれる。おのれ年頃心をつけて、遠き国人の、とぶらい来たるには、必ずその国の詞を問い聞きもし、その人の云う言をも、心とどめて聞きもするを、なお国々の詞どもを、あまねく聞きあつめなば、いかに面白きこと多からん。近き頃、肥後の国人のきたるが、云うことを聞けば、世に見える聞えるなど云うたぐいを、見ゆる聞こゆるなどぞ云うなる。こは今の世には絶えて聞こえぬ、雅びたることばづかいなるを、その国にてはなべてかく云うにやと問いければ、ひたぶるの賤山がつは皆、見ゆる、きこゆる、さゆる、たゆる、などように云うを、少し言葉をもつくろう程の者は、多くは見える、聞える、とように云うなり、とぞ語りける。そはなかなか今の世の俗き云いざまなるを、なべて国々の人の云うから、そを善き事と心得たるなんめり。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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