玉勝間 / 十の巻 改年号
西宮記云、改年號、大臣奉勅、仰文章博士、令勘申年號、奏聞、勘定之後、仰內記令作詔書、奏草及清書、賜御畫日、下中務、中務度案於大政官、太政官連暑、(○署カ)大納言覆奏畢、下施行官符、云云。
新字:西宮記云、改年号、大臣奉勅、仰文章博士、令勘申年号、奏聞、勘定之後、仰内記令作詔書、奏草及清書、賜御画日、下中務、中務度案於大政官、太政官連暑、(○署カ)大納言覆奏畢、下施行官符、云云。
書き下し
西宮記に云う、年号を改むるには、大臣勅を奉りて、文章博士に仰せて、年号を勘申せしめ、奏聞し、勘定の後、内記に仰せて詔書を作らしめ、草及び清書を奏し、御画日を賜い、中務に下す、中務案を太政官に度し、太政官連暑し、(○署カ)大納言覆奏し畢りて、施行の官符を下す、云々。
現代語訳
西宮記にいう。「年号を改めるには、大臣が勅命を受けて文章博士に命じ、年号の案を調べて申し上げさせ、それを奏上し、審議して決めた後、内記に命じて詔書を作らせ、草案と清書を奏上して、天皇の御画日(日付の自筆)を賜り、中務省に下す。中務省は案を太政官に渡し、太政官の官人が連署し(「暑」は「署」か)、大納言が再び奏上し終えて、施行の官符を下す」云々。
解説
改元の手続きを西宮記から抜き書きした段である。大臣が勅を受けて文章博士に新しい年号の案を出させ、審議して決めると、内記が詔書を起草し、天皇が日付を自筆で書き入れ、中務省から太政官へ回して連署し、大納言が改めて奏上したうえで、諸国に施行の官符が下される。年号一つにも幾重もの手順を踏んでいた。文中の「(○署カ)」は、「暑」が「署」の誤りではないかという書き入れである。宣長は解説を加えていないが、朝廷の制度がどのような手続きで動いていたかを示す一次資料として、次の改銭の段と並べて書き留めた。今の改元でも有識者に案を求めて閣議で決める。国の大事を定める手続きの型は、千年を隔てても驚くほど似ている。
関連する章句
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