中朝事実 / 禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり
其後中朝置遣唐使。通信於外朝。然外朝之書簡。多以諸侯王。世衰人訛。以此爲足。其失何在乎。唯造端於記誦文字之俗儒。以至我國之不知爲我國。噫輕家雞愛野雉。何德之衰乎。〔以上論善隣之禮。〕 應神帝二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王敎日本國。時太子菟道稚郞子讀其表怒之。責高麗之使。以表狀無禮。則破其表也。 謹按。是正表狀之禮也。凡太子讀外朝之典籍。在此十五年。然乃外朝之文字相通未遠。而太子之聰明雖莫不通達。中州非同氣相應。如何速得弘文之盛乎。高麗者我屬國。而表狀之無禮。太子破表責使。其嚴如此。志氣德量可并按也。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史。記言事。達四方志。 謹按。是置國史之禮也。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇憲法十七條。 謹按。是作憲章之書初也。 十六年聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。 謹按。是詔書之禮也。此後公式之禮大行。〔詳見論善隣之禮條上。〕賜新羅王渤海王於璽書。以天皇敬問某國王。是乃天子賜諸侯王書禮也。凡文辭命令者。國家之大禮也。因文字言辭之褒貶。以存尊卑親疎之禮。爲後世國史之例。草創討論潤色之義。更不可忽也。 二十八年。皇太子島大臣共議之。錄天皇記及國記臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。〔蘇我稻目宿禰之子馬子家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小島於池中。故時人曰島大臣。〕 謹按。是爲皇記國記本記之始也。孝德帝四年。有鞍作之事。〔蘇我臣入鹿。更名鞍作。〕父蘇我臣蝦夷臨誅。悉燒天皇記國記。船史惠尺卽疾取所燒國記。而奉中大兄。〔天智帝也。〕此時往古之典籍悉燒失之。其後天武帝詔群臣令記定帝紀及上古諸事。命境部連石積等。更肇俾造新字一部四十四卷。自是連綿典籍日造。文書大行于世。然中國往古之實記入于火。舊紀不明。唯摘灰殘之燼竹。以間存此往事。亦足爲萬世之戒。吁惜乎。或疑言語文字。愚謂。人旣有口舌。則有音聲。故情之所發。自有言語。有言語。則終有文字之象。其直出曰聲。有曲節曰音。其形象可以通曰字。其條理有節曰文。共是天地人物自然之勢也。豈唯中國外朝乎。四夷之侏離。禽獸之嘷吼亦然。直不得其正而已。往古神
新字:其後中朝置遣唐使。通信於外朝。然外朝之書簡。多以諸侯王。世衰人訛。以此為足。其失何在乎。唯造端於記誦文字之俗儒。以至我国之不知為我国。噫軽家鶏愛野雉。何徳之衰乎。〔以上論善隣之礼。〕 応神帝二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王教日本国。時太子菟道稚郎子読其表怒之。責高麗之使。以表状無礼。則破其表也。 謹按。是正表状之礼也。凡太子読外朝之典籍。在此十五年。然乃外朝之文字相通未遠。而太子之聰明雖莫不通達。中州非同気相応。如何速得弘文之盛乎。高麗者我属国。而表状之無礼。太子破表責使。其厳如此。志気徳量可并按也。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸国置国史。記言事。達四方志。 謹按。是置国史之礼也。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇憲法十七条。 謹按。是作憲章之書初也。 十六年聘唐帝。其辞曰。東天皇敬白西皇帝。 謹按。是詔書之礼也。此後公式之礼大行。〔詳見論善隣之礼条上。〕賜新羅王渤海王於璽書。以天皇敬問某国王。是乃天子賜諸侯王書礼也。凡文辞命令者。国家之大礼也。因文字言辞之褒貶。以存尊卑親疎之礼。為後世国史之例。草創討論潤色之義。更不可忽也。 二十八年。皇太子島大臣共議之。録天皇記及国記臣連伴造国造百八十部幷公民等本記。〔蘇我稲目宿祢之子馬子家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小島於池中。故時人曰島大臣。〕 謹按。是為皇記国記本記之始也。孝徳帝四年。有鞍作之事。〔蘇我臣入鹿。更名鞍作。〕父蘇我臣蝦夷臨誅。悉焼天皇記国記。船史恵尺即疾取所焼国記。而奉中大兄。〔天智帝也。〕此時往古之典籍悉焼失之。其後天武帝詔群臣令記定帝紀及上古諸事。命境部連石積等。更肇俾造新字一部四十四巻。自是連綿典籍日造。文書大行于世。然中国往古之実記入于火。旧紀不明。唯摘灰残之燼竹。以間存此往事。亦足為万世之戒。吁惜乎。或疑言語文字。愚謂。人既有口舌。則有音声。故情之所発。自有言語。有言語。則終有文字之象。其直出曰声。有曲節曰音。其形象可以通曰字。其条理有節曰文。共是天地人物自然之勢也。豈唯中国外朝乎。四夷之侏離。禽獣之嘷吼亦然。直不得其正而已。往古神
書き下し
其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
現代語訳
こうしてのち、中朝(日本)は遣唐使を置き、外朝(中国)と通信した。しかし外朝の書簡は、多くは諸侯王に対する形式であった。世が衰え人が偽りに流れ、それで足りるとした。その過ちはどこにあるのか。ただ暗記と文字に頼る俗儒に端を発し、自分の国が自分の国であることを知らないところにまで至った。ああ、家の鶏を軽んじて野の雉を愛するとは、なんと徳の衰えたことか。(以上、善隣の礼を論じた。) 応神天皇二十八年秋九月、高麗の王が使いを遣わして朝貢した。そのとき表(上書)を奉った。その表には、高麗王が日本国に教える、とあった。このとき太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、高麗の使いを責めた。表の書きぶりが無礼であるとして、その表を破った。 素行はこう考える。これは表の書きぶりの礼を正したものである。太子が外朝の典籍を読んでから十五年ほどである。しかし外朝との文字の相通が始まってまだ久しくなく、太子の聡明さはあらゆることに通じていたとはいえ、中州(日本)は気を同じくして呼応する関係ではないのだから、どうして速やかに学問の盛んさを得られただろう。高麗は我が国の属国であり、表の書きぶりが無礼であったので、太子は表を破って使いを責めた。その厳しさはこのとおりである。志気と徳量をあわせて考えるべきである。 履中天皇四年秋八月、初めて諸国に国史(記録役)を置いた。言葉と事を記し、四方の事情を中央に伝えさせた。 素行はこう考える。これは国史を置く礼である。 推古天皇十二年夏四月三日、皇太子が自ら初めて憲法十七条を作った。 素行はこう考える。これは憲章の書を作る初めである。 十六年、唐の皇帝に使いを送った。その文に、東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げる、とある。 素行はこう考える。これは詔書の礼である。これ以後、公式の礼が大いに行われた。(詳しくは善隣の礼を論じた条の上に見える。)新羅王・渤海王に璽書を賜るには、天皇が謹んで某国の王に問う、という形を用いた。これは天子が諸侯王に賜る書の礼である。およそ文辞・命令は国家の大きな礼である。文字や言葉による褒貶によって、尊卑親疎の礼を保ち、後世の国史の例とした。草創・討論・潤色の意義は、なおざりにしてはならない。 二十八年、皇太子と島大臣がともに議し、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造・百八十部、並びに公民らの本記を記録した。(蘇我稲目宿禰の子の馬子が、家を飛鳥川のほとりに置き、庭の中に小さな池を掘り、その池の中に小島を築いた。そのため当時の人は島大臣と呼んだ。) 素行はこう考える。これが皇記・国記・本記の始めである。孝徳天皇の時代、鞍作の事件があった。(蘇我臣入鹿、またの名は鞍作。)父の蘇我臣蝦夷は誅される際に、天皇記・国記をことごとく焼いた。船史恵尺はすぐに焼けようとしていた国記を取り出して中大兄(天智天皇)に奉った。この時、往古の典籍はほとんど焼失した。その後、天武天皇が詔して群臣に帝紀および上古の諸事を記し定めさせ、境部連石積らに命じて、新たに字書一部四十四巻を造らせた。これより連綿として典籍が日々作られ、文書が大いに世に行われた。しかし中国(日本)往古の実記は火に入り、旧紀ははっきりしない。ただ灰の中の燃え残りの竹簡を拾って、わずかにこの昔のことを留めているにすぎない。それでも万世の戒めとするに足る。ああ、惜しいことだ。ある人は言語と文字について疑う。私は考える。人にすでに口と舌があれば、音声がある。だから情が発するところ、おのずと言語がある。言語があれば、ついには文字の形が生まれる。その直接に出るものを声といい、節を持つものを音という。その形象で意思を通じ得るものを字といい、その筋道に節度のあるものを文という。これらはみな天地・人・物の自然の勢いである。どうして中国(外朝)だけのことであろう。異民族の聞き取りにくい言葉や、禽獣の吠え声もまた同じである。ただ正しさを得ていないだけだ。往古の神
解説

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『中朝事実』禮儀章・文字と和訓・書画の礼聖旣に唱和・嘖讓・誓約の義有り。太玉命の稱讚、天兒屋命の太諄辭。況んや天神の聖勅をや。素戔鳴尊の稻田姫に於けるや、彥火火尊の豐玉姫に於けるや、神武帝の御謠、道臣命の諷歌に至りては、乃ち章有り句有り文有り藻有らんや。夫れ文字の作るや、其の言語音聲に因りて、其の事物の形氣を象り、端を其の始めに造り、修飾楷模、其の後に備完す。蓋し往古に假名字有り。〔俗に伊呂波と曰ふ。〕是れ乃ち文字の父母にして、言語の音象なり。以て其の事を通じ、以て其の情を表す。後世因循增益して、千變萬化の文字と爲り、天下の用と爲る。音聲の委曲婉轉なること、人情の精微幽玄なること、繕寫して之を盡くさざる莫し。應神帝に及びて、外朝の文字相通じ、字畫の規楷、殆ど中華の文字に類す。五音の平上去入も亦た此に異ならず。和漢の字相通用し、外國を譯するに漢字を以てし、言語を詳らかにするに倭訓を以てす。然れば乃ち中華の文字は、其の實倭字に在り。倭漢の字を以て互ひに相用ゐ、以て天下の利と爲すなり。或ひと疑ふ、今用ゐる所の文字は、皆外國の文字なり。上古の文字は何ぞ形象有りしかを知らず、と。愚謂へらく、凡そ文字の制は必ず時と與に變化す。往古の文書は、鞍作の亂に悉く灰と爲り、其の時、旣に之を知るべからず。況んや後世をや。且つ外朝の文字相通じてより爾來、文學の史生、留學の博士、專ら外書を好み、其の記する所、其の言ふ所、悉く漢語を用ふ。是れ倭漢の事義、筆畫互ひに相因るなり。鯛・鯔・年魚・堅魚・鰶魚を魚と爲し、槇・椿・梶・櫻・楓を木と爲す。或いは外朝の字義に同じからず、或いは外書に其の字無きの類甚だ多し。皆國俗の制なり。或ひと疑ふ、然れば乃ち何ぞ中國の字編無きや、と。愚謂へらく、外國と中國とは、天地の氣候を一にし、神聖の揆を同じくして、人物事義、殆ど異ならず。漢語の相襲ふこと、猶ほ水は濕に流れ火は燥に就くがごとし。少頃にして天下の人人、皆倭字漢字を相用ゐ、外朝の治平遼遠、人物の其の事に敏き、文書史編の字畫、悉く之を致すに異ならず。故に中州乃ち之に因りて以て補益す。假借の來たること、是れ其の短を措き其の長に就くの道なり。竊かに按ずるに、往古の言語名字は、其の說其の義、今審らかにすべからず。强ひて之を解けば附會に似たり。或いは上古の辭有り、或いは後世の訛言有り、或いは漢字通用の語有り、或いは方言有り、或いは時俗の辭の相製するもの有り。大抵、中朝の言語は悉く訓故を用ゐ、言辭の間、事物尤も通じ易し。文章辭令を盡くすに足らず。外朝は之に反し、言語盡く音を用ゐる。故に一事と雖も文字に贍らざれば、明辨し難し。此に於て文章辭令、日に繁く年に累なる。夫れ外朝の古は、鳥迹以て結繩に代へ、科斗以て鳥形に代へ、篆籕以て科斗に代へ、隷書以て篆籕に代へ、而して後、草書・飛白の類相續いで起こる。漢の時、周を去ること未だ遠からずして、科斗の文字、人解くを得ず。然れば乃ち上古近代の字畫の同じからざること、外朝すら尙ほ爾り。況んや武后の圀字を作る、〔國字。昌黎の作れる犯字、音は敦の上聲。收錢了訖。〕庵を隋唐に奄と作る、十を唐音に平聲と爲す、〔唐詩に平聲と爲す。音は當に諶と爲すべし。之を長安の語音と謂ふ。否れば則ち詩叶はず。〕□字は梵音、詩人之を用ゐる、〔□は伊字、佛書に之を用ゐる。唐の王維の詩に三點伊を成すと、猶ほ想有り。〕綱字は之無し、升庵之を用ゐる、〔綱字は書に之無し。楊升庵に綱巾の義有り。〕廉編は字有りて音無く義無し。此の如きの類尤も多し。故に經史に出でざるの字有り、音義に知るべからざるの字有り。或いは奇字近作有り、或いは釋梵の俗字有り、或いは叶韻假借有り。然れども外朝文字の祖は、易を以て本と爲し、奇偶を以て畫と爲し、形・事・意・聲を以て體と爲す。只だ日に便簡に趨き、字楷古意を失ふ。豈に字畫のみ爾らんや。事物の修飾、其の道を以てせざれば、則ち其の實泯沒して其の古を失ふ。并せ案ずべきなり。或ひと疑ふ、此に因れば則ち文學は必ず外朝を以て長ずと爲すか、と。愚謂へらく、漢語の文學は、外朝に倚らざれば之を知るべからず。故に推古帝、好を修め隣を善くせしより後、外國通信已まず。留學生を置き、以て漢語を講肆せしむ。外朝の典籍、來たらざる無し。吉備眞備・阿倍仲滿の如き、盛唐の文人詩仙と相並びて愧ぢざるに至る。其の風を慕ひ塵を繼ぎて相興る者、世世人に乏しからず。詩賦文章の集、以て册と爲す。亦た何ぞ彼に異ならんや。抑も文學は我が文學にして、必ずしも彼ならず。大底、朝廷の紀錄・史書・勅集は、皆漢字を假借し倭語を訓ず。其の間、專ら漢語を以てするもの有り、倭漢相襍ふるもの有り、倭字を以てするもの有り。日本書紀・萬葉集・古今集、及び六條宮の眞字を以て伊勢物語を模謄し、菅爲長の倭語を訓じて貞觀政要を諺說するが如き是れなり。中朝の文學を知らずして漢文を學ぶは、猶ほ未だ人に事ふること能はずして鬼神に事ふるを問ふがごとし。或ひと問ふ、書畫にも亦た中朝の法有りや、と。愚謂へらく、旣に文字有れば、則ち未だ嘗て模楷無くんばあらず。上古の事迹は、今之を知るべからず。中古以來、眞・行・艸の精秀、或いは神に入り、或いは聖に入り、鬼神も亦た之に感じ、木石も亦た動く。其の勢ひ龍鳳より飛び、其の機未然に通ずるの輩、相續き連綿として、各々一家の風を興し、又た外朝に相並ぶ。藤道長・藤佐理及び野人若愚の善書の稱、彼の國の書を見て、況んや畫手の妙、更に彼に愧ぢざるをや。凡そ文字の形象日に變じ、其の觀に壯なる者は、殆ど古意を失ふ。筆資の意を縱にし、點楷の手に任するに、凌雲・垂露の逞しきは、是なるは是なれども、字畫の繇つて參差する所、俗字の由りて興起する所なり。外朝の善書者も亦た然り。字、變じて楷と爲り、大いに古體に背く。而して鍾繇・王羲之、楷を善くするを以て名家たり。吁、修飾の禮は、君子に非ざれば其の實を得べからざるなり。〔以上、文書の禮を論ず。〕
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『中朝事実』禮儀章・対等の隣交と属国の別一書に曰く、群臣議して曰く、妹子懈怠して、蕃國の表を失ふ。罪、流刑に合ふ。具さに狀して聞奏す。天王、聖惠太子に問ふ。太子奏して曰く、妹子の罪は寔に寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來たる。思ふに復た如何、と。天皇大いに悅びて罪を免す。又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝、倭王に問ふ、云云。天皇、太子に問ひて曰く、此の書如何、と。太子奏して曰く、天子の諸侯王に賜ふ書式なり。然れども皇帝の字は天下に一のみ。而るに皇の字を用ふるは、彼に其の禮有るなり、と。天皇、太子以下を召して答書の辭を議す。太子、筆を握りて之を書して曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふ、云云。帝、謹んで白す、不具、と。〔通鑑綱目集覽に曰く、隋の煬帝大業四季戊辰三月、倭國入貢す。倭王書を遣はして曰く、日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、と。〕 謹んで按ずるに、是れ隣好を修むるの始めなり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候・水土・人物・事義、以て之を好みすべく、以て之を通ずべきなり。氣を同じくすれば相求め、類を同じくすれば相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各々其の類に從ふは、天の道なり。天地の博く、宇宙の渺たる、泛泛乎として此の州島あり。唯だ外國の事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くすること、猶ほ石水の相投じ、膠漆の相入るがごとし。千載の神聖、一日にして之に遇ふ。萬里の遠波、一葦にして之を航る。是れより隣交の道大いに啓け、互ひに聘禮す。外朝の經典、廣く世に行はれ、人人、聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ、雲は龍に從ひ、雲行き雨施して、品物大いに成る所以なり。善隣の時、其の資、懿からずや。蓋し國の大小を以てすれば則ち彼は大なり。人治の遠近を以てすれば則ち彼は遼かなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遼かなり、故に事義疆り無し。當時初めて書を制するに、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆に非ざれば、其の志氣洪量、能く本朝を中華と爲す所以を知らんや。夫れ外朝は其の地博くして約ならず。治敎盛んなれば則ち畫する所惟れ泛く、守文明らかならざれば則ち戎狄之に據る。吳・越・荊・楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或いは十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或いは臨安に退きて臣を醜虜に稱す。皆是れ戎狄に逼らるる所なり。是れ一大土中に地を畫り城を築き、以て封域を立て、境を四夷に接するなり。故に天下の勢ひ、或いは南北に袤くして東西蹙まり、或いは東西長くして南北縮む。或いは九州・十二州有り、或いは十道・二十三路を以てして、經畫一ならず。王統數々姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。人主治世の來ること久しければ、治亂盈虛、大いに變じ、人心悉く澆訛す。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子、君父を弑すること、猶ほ草を薙ぐがごとし。大臣・世臣、妖事を行ふこと禽獸の如し。是れ治道の變化し、微言の日に隱るるの失に非ずや。唯だ中國は之に反す。卓として巨海に立ち、封域自ら天險有り。神聖、天を繼ぎ極を立てしより爾來、四夷竟に藩籬をも窺ふを得ず。皇統連綿として天壤と窮まり無し。況んや神代の治悠久にして、人皇の祥、永算なるをや。今日の澆季も、亦た尙ほ周の末よりも優れり。〔凡そ帝堯より今に至るまで四千有餘年、神武帝より今に至るまで二千三百餘年、堯より周の末に至るまで殆ど二千餘年。〕言ふと雖も、若し果たして澆訛ならば當に鬼魅と爲るべし。上古は人少なくして氣淳し。治久しくして人多ければ、則ち氣漓して人澆なるは、天地の數なり。後世は誠に古に及ばざること遠し。然れども乃ち人物も亦た厚からざらんや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝に乏しからん。故に彼と相對して自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くするを、更に恥ぢざる所以なり。或ひと疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も、亦た好を修め隣を善くするに非ざるか、と。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神・垂仁帝の朝に在り。其の後、住吉の大神、高麗・百濟・新羅・任那等を譽田天王、及び若櫻宮に賜ふ。壹たび戎衣して各々面縛し、櫬を輿にし圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指して以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟ふ。伏して飼部と爲り、船の拖を乾さず、每歲朝貢を絕えず。初め國每に官家を置き、海表の蕃屏と爲す。是より歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否れば乃ち征伐して以て不逞を懲らす。然れば是れ海外の諸蕃は、皆中國の屬と爲る。唯だ外朝のみ以て通信すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華は終に聘禮を彼の地に行はず、往くこと厚く來ること薄くして、以て遠人を柔らげ外國を懷くるのみ。或ひと疑ふ、外朝も亦た來聘するか、と。愚按ずるに、推古朝に隋の煬帝、文林郞裴世清を遣はして來聘せしむ。天智朝に唐の客郭務悰等來聘す。其の書に曰く、大唐帝、敬みて日本國天皇に問ふ、と。天武朝に郭務悰又來聘す。
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『中朝事実』聖政章・殉死の禁止と風俗を正す施策垂仁帝二十八年、詔して曰く、「夫れ生くる所の愛する者を以て亡き者に殉はしむるは、甚だ傷なり。其れ古の風と雖も、良からずんば何ぞ從はん。今より以後、議りて殉を止めよ」と。 謹んで按ずるに、殉とは人を以て亡き者に殉ふなり。夫れ人君は民の父母なり。未だ父母にして其の子を愛せざる有らず。亡き者に殉はしむるは、哀しみの過ぎて愛の溢るるなり。聖人の政、豈に之を用ゐんや。此の時、古を去ること未だ遠からず、人民情に從ひ俗に習ひ、上下以て行ふ。帝、制を建て法を改め、殉を止むるの詔有り。三十二年、野見宿禰、明器の土梗を作りて之に易ふ。帝大いに其の德を稱し、以て土師の姓を賜ふ。是れ民の父母たるの誠を擴充する所以なり。此れより朝廷の殉亡の制、亦行はれず。帝の德、大なるかな。竊かに按ずるに、外朝は始め俑有り、以て殉に至る。其の弊、國を亂すに及ぶ。中國は始め殉有り、以て土物を作るに至り、竟に殉を止む。其の風俗の渾厚、以て之を見るべきなり。〔以上、殉を禁ず。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉、筑紫に幸す。 謹んで按ずるに、是れ巡狩の始めなり。此の時熊襲反きて朝貢せず。故に此の幸有り。而して大いに西方の諸侯に覲え、以て風俗を正し、制度を明らかにするなり。後又東方を巡守し、以て政事を定む。此の時天下大いに定まり、封域以て建つ。成務帝に迄び、國郡縣邑の制、長・首・渠を造るの法、竟に定まる。天下猶ほ一家のごとく、敎化俗を同じくす。巡守の道、大なるかな。〔以上、巡狩。〕 仁德帝十一年、武藏の人强頸、河内の人茨田連衫子の二人、以て河神に禱る。 謹んで按ずるに、妖神、人を殺して牲と爲すは、夷狄の習俗なり。是れ天孫未降の前、惡鬼妖怪の餘政なり。蓋し堤を爲り溝洫を設くるは、人を愛するの道なり。神の神たる、豈に非禮の祭を享けんや。帝、夢寐の妖を信じ、以て人を用ゐて河伯を祭る。噫、何ぞ是れ惑へるや。夫れ帝の聰明儉德、天下の太平無事なること、後世の企望する所に非ず。猶ほ鬼神を信じ、衫子の淺謀もて神の妖僞を知るに如かず。此の失、爰に處るは、唯だ思辨の道、其の誠を盡くさざるのみ。人君政敎の要、豈に愼まざるべけんや。今此の一事を擧げて以て帝の政弊と爲すは、未だ嘗て隱惡の戒めに懼れずんばあらず。然れども帝の仁德爲る、天下知らざる無し。猶ほ習俗の以て德を漬すこと有り。後世執政の道、最も以て鑑みるべし。〔以上、弊を改む。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置き、言事を記し、四方の志を達せしむ。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの始めなり。史は事を記すの官なり。言ふこころは、諸國に此の官を立て、上は以て天子の敎令を記し、下は以て國郡の事を記す。是れ國俗を正し人情を達するの政なり。凡そ五方各々其の俗有り、民又其の習を異にす。故に人君其の事物を知らざれば、則ち政令必ず乖く。今國史を置き言事を記し、其の制度を正し、國俗の化を知り、以て其の政を致すなり。後世、國守の外、目・史等の官有り、皆國の事を記し、以て其の政を正す。是れなり。〔以上、國史。〕 清寧帝三年秋九月壬子朔癸丑、臣・連を遣はし風俗を巡省せしむ。冬十月壬午朔乙酉、詔して曰く、「犬馬器翫、獻上することを得ざれ」と。 謹んで按ずるに、使臣の巡察は、政の恒なり。而して風俗を巡省するは、是れ敎化の繫る所其の俗の大なればなり。且つ翫器・犬馬を獻ずるを得ざらしむるは、乃ち其の風俗を正すなり。人君、物を翫べば則ち志を喪ふ。物は至微にして、志は至大なり。至微を愼まざれば、則ち至大制すべからず。人君の好む所に天下歸す。豈に忽にすべけんや。帝、其の俗を正さんと欲す。故に此の詔有り。而して又人情を寬くせんと欲し、宴を群臣に賜ひ、大酺すること五日。是れ儉にして寬なり。宜なるかな。海表諸蕃、調を進め、海内安康なり。〔以上、風俗を正す。〕
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『中朝事実』神敎章・王仁の渡来と外朝の学を採る度量誉田天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯、百済王、阿直岐を遣はして良馬二匹を貢ぐ。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直岐をして飼を掌らしむ。故に其の馬を養ふ処を号けて厩坂と曰ふ。阿直岐は亦能く経典を読む。即ち太子菟道稚郎子、師とす。是に天皇、阿直岐に問ひて曰く、如し汝に勝れる博士、亦有りや、と。対へて曰く、王仁といふ者有り、是れ秀れたり、と。時に上毛野君の祖荒田別・巫別を百済に遣はし、仍りて王仁を徴す。其の阿直岐は阿直岐史の始祖なり。十六年春二月、王仁来る。則ち太子菟道稚郎子、之を師とし、諸の典籍を王仁に習ひ、通達せざること莫し。故に所謂王仁は、是れ書首等の始祖なり。 百済王眞道〔後に菅野の姓を賜ふ。〕表を上りて〔延暦の朝。〕曰く、眞道等、本系は百済国の貴須王より出づ。貴須王は、百済始興第十六世の王なり。夫れ百済の太祖都慕大王は、日神霊を降し、扶余を奄ひて国を開く。天帝籙を授け、諸韓を総べて王と称す。降りて近肖古王に及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴国に聘ふ。是れ則ち神功摂政の年なり。其の年、応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命じて百済に使ひせしめ、有識者を捜し聘ふ。国主貴須王、恭みて使者を奉じ、宗族を採択して、其の孫辰孫王〔一名は智宗王。〕を遣はし、使に随ひて入朝せしむ。天皇、焉を嘉し、特に寵命を加へ、以て皇太子の師と為す。是に始めて書籍を伝へ、大いに儒風を闢く。文教の興、誠に是に在り。仁徳天皇、辰孫王の長子阿郎王を以て近侍と為す。桓武の朝、武生連眞象等言す、漢の高祖の後を鸞と曰ふ。鸞の後は王狗、転じて百済に至る。久素王の時、聖朝、使を遣はして文人を徴召す。久素王即ち狗の孫王仁を以て貢ぐ。是れ又武生等の祖なり、と。 謹んで按ずるに、是れ中国、外国の経典を学ぶの始めなり。学者は修己治人を以て本と為す。修己治人の道、人情事物に通ぜざれば、即ち其の誠を得ず。夫れ天神の生知は通ぜざる無く、天祖の明教は尽くさざる無し。故に神武帝は洪基を建て、綏靖帝は至孝、崇神帝は日々に慎むこと一日より慎み、垂仁帝は矯飾する所無く、景行帝は雄謀、成務帝は兢惕す。皆是れ乾霊の正徳に従ひ、大神の明教を繹ね、以て人物の情を詳らかにし、当世の急務に施す。天秩以て叙び、人物処を得たり。是れ乃ち中州神聖の学の原にして、往古に著明にして、万世以て法るに足るなり。仲哀帝に及び、住吉大神、有宝国を賜ふ。神功帝親ら三韓を征し、三韓面縛して服従し、武徳を外国に耀かす。是より三韓毎年朝聘し、貢を献ずること船楫乾かず。故に外国の諸器及び経典、具はらざる無し。百済王の懇款の余り、博士・女工等を貢ず。是に於て中州始めて漢字を知る。応神帝は聖武にして聡達、博く外国の事に通ぜんと欲し、王仁を徴し、典籍を読ましめ、太子之を師とし、以て能く漢籍に通達す。凡そ外朝の三皇・五帝・禹・湯・文・武・周公・孔子の大聖も、亦中州往古の神聖と其の揆を一にす。故に其の書を読めば、則ち其の義通じ、間隔する所無し。其の趣向、猶ほ符節を合はすがごとし。採挹斟酌すれば、則ち又以て王化を補助するに足る。竊かに按ずるに、誉田帝、己を虚しくして百済の博士を徴し、後、中国広く外朝の典籍に通じ、聖賢の言行を知る。是れ乃ち住吉大神の賚なり。或ひと疑ふ、外朝は我に通ぜずして文物明らかなり。我は外朝に因りて其の用を広む。則ち外朝は我より優れるか、と。愚按ずるに、否。開闢の神聖の徳行、明教より、兼備せざる無し。漢籍を知らずと雖も、更に一介の闕くること無し。幸ひに外朝の事に通じ、其の長ずる所を取りて以て王化を輔くるは、亦寛容ならずや。何ぞ唯だ外朝のみならんや。凡そ天下の間、詳らかに知り並び畜へ、短を校べ長を考へ、用を待ちて遺す無く、事に従ひて是れ適するは、量の大なるなり。内外相持して、人物以て成る。若し短を護り外を拒むは、君子の為す所に非ず。況んや外朝は我と其の致を一にして、其の歴世尤も久しきをや。其の封域太だ広きをや。其の人物衆多にして、政事損益あるをや。足れる共に以て之を覩んや。是れ中州の八紘に冠たる所以なり。後世、勘合絶えて鄰交の好を脩めざるも、亦我に足らざる無し。並び考ふべし。或ひと疑ふ、王仁は徳高く、且つ毛詩に善し。故に難波津の詠を為し、遂に以て仁徳帝の聖を成す、と。愚按ずるに、否。王仁は漢籍に通ずる博士なり。此の時、人未だ漢字に通ぜず。故に端を彼に造るのみ。後に阿知使主と王仁とをして官物の出納を記さしむ。〔古語拾遺に見ゆ。〕則ち其の職掌知るべきなり。難波帝は、謙徳寛仁の明主にして、時に遺賢無く、朝に謬挙無し。古今以て聖帝と為す。王仁の才徳、国史に著れず、食禄は唯だ文首たるのみ。則ち恥づべきの至りなり。俗学末儒の中国を蔑して以て外邦を信ずるは、是れ耳を貴び目を賤しむの徒、附益助長の弊なり。〔以上、外朝の文を学ぶ。〕 以上、教学の淵源を致す。謹んで按ずるに、学とは効なり。其の知らず能はざるを効ふなり。近き者は見て之を知り、遠き者は聞きて之を知る。人の生まるるや、幼孩より壮老に至るまで、未だ嘗て教学に由らずんばあらず。蓋し人の万物に長たるは、知有るなり。知の霊なり。思ひて通ぜざる無く、致して尽くさざる無し。故に其の小人たるも、其の君子たるも、皆学の習ふ所に因る。夫れ火に然ゆべきの質有るも、薪柴を用ひて加ふるに風を以てせざれば、則ち其の威を長ずる能はず。水に流るべきの素有るも、卑下に因りて以て疏導せざれば、則ち其の源を深くするを得ず。或いは之を暴にし、或いは之を鑿てば、則ち其の害、人物に及ぶ。豈に水火のみならんや。学の人に於ける、慎まざるべけんや。故に天神の生知は、動きて感じ言ひて通ずるが如くなるも、猶ほ思兼の議謀の詳らかなる有り。天孫の臨降に及び、神勅の嚴なる有り、神器の常に守るべき有り、二神以て輔養する有り。其の身を修め人を治むるの道、至れり尽くせり。是れ後世聖教の淵源に非ずや。或ひと疑ふ、中朝は書史に乏しく、久しく学校進士の設を絶つ。故に人才未だ成るを得ざるか、と。愚謂ふ、神聖は見て之を知り、後世は聞きて之を知る。其の差謬を恐れ、記録相続く。其の筆削聖人に非ざれば、臆説を免れず。編簡日々に盛んにして、人は書を以て学と為し、聖教漸く隠れ、日用大いに晦し。其の端を異にし、其の白を堅くして、空虚を彫り、氷水に刻む。況んや学校進士の設、其の実を得ざれば、則ち詐偽を競ひ、利勢に趨くのみ。夫れ博識を以てすれば、則ち華夷の書を尽くすも、未だ多しと為すべからず。能く其の道に通ずれば、則ち一言も以て少しと為すべからず。況んや史編の闕けざるをや。
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『配所残筆』配所殘筆(21)乍序我等存寄之學問之節少々記置候、我等事以前より異朝之書物を好、日夜勤候て、近年新渡之書物は不存、十ヶ年以前迄異朝より渡り候書物大方不殘令一覽候、依之不覺異朝之事を諸事宜存、本朝は小國故異朝には何事も不及、聖人も異朝にこそ出來候へと存候、此段は我等計に不限、古今之學者皆左樣に心得候て、異朝をしたひ學び候、近頃初而此存知入甚誤成りと知候、信耳不信目、棄近而取遠候事不及是非、誠に學者之通病に候、詳に中朝事實に記し候へば大概を爰に記置候、本朝者天照太神之御苗裔として、神代より今日迄其正統一代も違候事無之、藤原氏輔佐之臣迄世々不斷して、攝錄之臣相續候事、亂臣賊子之不義不道成事無之候故なり、是仁義之正德甚厚成故にあらずや、次に神代より人皇十七代迄は悉聖德之人君相續あり、賢聖の臣輔佐奉りて、天地之道を立、朝廷之政事國郡之制を定め、四民之作法日用衣食家宅冠婚喪祭之禮に至まで各其中庸を得て、民やすく國平に、萬代之規模立て、上下之道明成は、是聰明聖知之天德に達せるにあらずや、况武勇之道を以いはば、三韓を平げて本朝へ貢物をあげ、高麗を攻て其主城を落し入、日本の府を異朝に設て武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り、本朝武勇異國までも恐れ候得共、終に外國より本朝を攻取候事はさて置、一ヶ所も彼地へうばはるゝ事なし、されば武具馬具劍戟之制、兵法軍法戰略之品々、彼國の及處にあらず、是武勇之四海にまされるにあらずや、然者智仁勇の三は聖人之三德也、此三德一つもかけては聖人の道にあらず、今此三德を以本朝と異朝とを一々其印を立て校量せしむるに、本朝はるかに勝れり、誠にまさしく中國といふべき所分明なり、是更に私に云にあらず、天下之公論なり、上古に聖德太子ひとり異朝を貴びず、本朝之爲本朝事をしれり、然れども舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜哉其全書世に顯れず、
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『中朝事実』附錄・中国の名と聖徳太子論或ひと疑ふ、本朝を中国と称するは、直に称美するなるか。又其の所以の名有るかと。 愚謂へらく、二神、磤馭盧島を以て国中の柱と為す。是れ乃ち本朝の天地の中たるなり。天照大神、天上に在りて曰はく、「聞く、葦原中国に保食神有りと」。又高皇産霊尊、天津彦火瓊瓊杵尊を立てて、以て葦原中国の主と為さむと欲す。是れ天神皆此の地を以て中国と為す。是より歴代、中国と称す。蓋し地は天の中に在りて、中国又其の中を得たり。是れ乃ち中の又中なり。土の天地の中を得れば、則ち人物必ず精秀にして、事義も又過不及の差無し。本朝の太祖天御中主尊、国常立尊、其の尊号の名義に、既に常中の言有り。以て国中の柱を建つ。故に其の中国たる所以は、乃ち天然の勢なり。竊かに按ずるに、外朝の聖礼は、諸を此に論ずれば、殆ど過厚に幾し。所謂衣に裘毳有り、食に牛羊有り、居に楊牀有り、廟に釁るに牲を以てし、盟を誓ふに牛を殺し、喪に含斂有り、婚に媵娣姪の類是れなり。西蕃の釈教は、諸を此に論ずれば、太甚だ漓薄にして及ばざるなり。其の髡髪食菜、運水搬柴を以て道と為し、祭に蔬麺を用ゐ、喪に火葬有り、其の大に及びては、終に君を薄くし父を蔑し倫を乱すの類是れなり。唯だ本朝は神聖相続ぎ、大賢英才日に興り、其の宜しきを把り、其の礼を制す。是れ乃ち天地人物事義の中、至誠息む無きの道なり。故に皇統は天壌と窮まり無く、礼儀は因循して、天下之に由る。惜しいかな、旧紀の詳らかなるは、入鹿の火に厄す。然れども世世人に乏しからず。若し其の遺風余烈に因りて、以て礼楽の実を斟酌せば、亦難からざらむ。是れ中国の称は、唯だ本朝の名を虚しからざる所以なり。 或ひと疑ふ、八耳王子を聖徳と号するは、殆ど其の実無からむか。馬子を討つ能はずして弑逆を信じ、西教を信じて浮屠の法を熾んにす、其の本大いに聖徳に違ふかと。 愚謂へらく、馬子弑逆の罪、太子の聡明、未だ嘗て其の機を知らずんばあらず。良史は太子八耳、天王を弑するを書して隠さず。太子又法を為して其の悪を受くべし。太子、蘇我の勧引浹洽に因りて、以て異教を信ず。尤も不可なること大なり。竊かに按ずるに、太子は推古帝に摂政して、其の行ふ所、其の施す所、治道の休善、皆神聖の道にして、西域の教に非ず。其の憲章を述作するや、礼を以て人民の本と為す。其の外国に通好するや、天皇を以て抗称して屈せず。其の聡明度量は、睿知寛仁と謂ふべし。故に天下大いに化す。其の薨ずるや、少壮も考妣を喪ふがごとく、哭泣の声、道路に盈つ。耕す者は耒を釈き、春く者は杵を釈く。然れば乃ち其の功化は、聖徳を以てするも亦宜なるかな。蓋し此の時、釈氏の教は専ら熾んなりと雖も、未だ心性を弄び、空虚を彫ること太甚だしきに至らず。唯だ専ら信じ篤く敬ひ、以て福を祈り奇を尚ぶのみ。故に太子の建つる所の憲章は、礼を以て道を制す。並び按ずべし。俗儒皆疑ふ、憲章に三宝の説有りと。然れば乃ち之を信ずるに足らず。 愚謂へらく、憲法の内、一条に三宝の敬篤き有り。一の非を以て十六条の是を掩ふは、君子の志に非ず。其の寺を建て僧を度するは、皆西教の染習なり。憲章の如きは、尤も治世の要戒なり。豈に信ぜざるべけむや。後世、太子を尊信すること過誇にして、悉く其の実を銷し、其の私記臆説を附会牽合す。更に言論するに足らず。唯だ日本紀に拠りて、以て之を証見すべきなり。