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中朝事実 / 禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり

其後中朝置遣唐使。通信於外朝。然外朝之書簡。多以諸侯王。世衰人訛。以此爲足。其失何在乎。唯造端於記誦文字之俗儒。以至我國之不知爲我國。噫輕家雞愛野雉。何德之衰乎。〔以上論善隣之禮。〕 應神帝二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王敎日本國。時太子菟道稚郞子讀其表怒之。責高麗之使。以表狀無禮。則破其表也。 謹按。是正表狀之禮也。凡太子讀外朝之典籍。在此十五年。然乃外朝之文字相通未遠。而太子之聰明雖莫不通達。中州非同氣相應。如何速得弘文之盛乎。高麗者我屬國。而表狀之無禮。太子破表責使。其嚴如此。志氣德量可并按也。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史。記言事。達四方志。 謹按。是置國史之禮也。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇憲法十七條。 謹按。是作憲章之書初也。 十六年聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。 謹按。是詔書之禮也。此後公式之禮大行。〔詳見論善隣之禮條上。〕賜新羅王渤海王於璽書。以天皇敬問某國王。是乃天子賜諸侯王書禮也。凡文辭命令者。國家之大禮也。因文字言辭之褒貶。以存尊卑親疎之禮。爲後世國史之例。草創討論潤色之義。更不可忽也。 二十八年。皇太子島大臣共議之。錄天皇記及國記臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。〔蘇我稻目宿禰之子馬子家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小島於池中。故時人曰島大臣。〕 謹按。是爲皇記國記本記之始也。孝德帝四年。有鞍作之事。〔蘇我臣入鹿。更名鞍作。〕父蘇我臣蝦夷臨誅。悉燒天皇記國記。船史惠尺卽疾取所燒國記。而奉中大兄。〔天智帝也。〕此時往古之典籍悉燒失之。其後天武帝詔群臣令記定帝紀及上古諸事。命境部連石積等。更肇俾造新字一部四十四卷。自是連綿典籍日造。文書大行于世。然中國往古之實記入于火。舊紀不明。唯摘灰殘之燼竹。以間存此往事。亦足爲萬世之戒。吁惜乎。或疑言語文字。愚謂。人旣有口舌。則有音聲。故情之所發。自有言語。有言語。則終有文字之象。其直出曰聲。有曲節曰音。其形象可以通曰字。其條理有節曰文。共是天地人物自然之勢也。豈唯中國外朝乎。四夷之侏離。禽獸之嘷吼亦然。直不得其正而已。往古神

新字:其後中朝置遣唐使。通信於外朝。然外朝之書簡。多以諸侯王。世衰人訛。以此為足。其失何在乎。唯造端於記誦文字之俗儒。以至我国之不知為我国。噫軽家鶏愛野雉。何徳之衰乎。〔以上論善隣之礼。〕 応神帝二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王教日本国。時太子菟道稚郎子読其表怒之。責高麗之使。以表状無礼。則破其表也。 謹按。是正表状之礼也。凡太子読外朝之典籍。在此十五年。然乃外朝之文字相通未遠。而太子之聰明雖莫不通達。中州非同気相応。如何速得弘文之盛乎。高麗者我属国。而表状之無礼。太子破表責使。其厳如此。志気徳量可并按也。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸国置国史。記言事。達四方志。 謹按。是置国史之礼也。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇憲法十七条。 謹按。是作憲章之書初也。 十六年聘唐帝。其辞曰。東天皇敬白西皇帝。 謹按。是詔書之礼也。此後公式之礼大行。〔詳見論善隣之礼条上。〕賜新羅王渤海王於璽書。以天皇敬問某国王。是乃天子賜諸侯王書礼也。凡文辞命令者。国家之大礼也。因文字言辞之褒貶。以存尊卑親疎之礼。為後世国史之例。草創討論潤色之義。更不可忽也。 二十八年。皇太子島大臣共議之。録天皇記及国記臣連伴造国造百八十部幷公民等本記。〔蘇我稲目宿祢之子馬子家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小島於池中。故時人曰島大臣。〕 謹按。是為皇記国記本記之始也。孝徳帝四年。有鞍作之事。〔蘇我臣入鹿。更名鞍作。〕父蘇我臣蝦夷臨誅。悉焼天皇記国記。船史恵尺即疾取所焼国記。而奉中大兄。〔天智帝也。〕此時往古之典籍悉焼失之。其後天武帝詔群臣令記定帝紀及上古諸事。命境部連石積等。更肇俾造新字一部四十四巻。自是連綿典籍日造。文書大行于世。然中国往古之実記入于火。旧紀不明。唯摘灰残之燼竹。以間存此往事。亦足為万世之戒。吁惜乎。或疑言語文字。愚謂。人既有口舌。則有音声。故情之所発。自有言語。有言語。則終有文字之象。其直出曰声。有曲節曰音。其形象可以通曰字。其条理有節曰文。共是天地人物自然之勢也。豈唯中国外朝乎。四夷之侏離。禽獣之嘷吼亦然。直不得其正而已。往古神

書き下し

其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神

現代語訳

こうしてのち、中朝(日本)は遣唐使を置き、外朝(中国)と通信した。しかし外朝の書簡は、多くは諸侯王に対する形式であった。世が衰え人が偽りに流れ、それで足りるとした。その過ちはどこにあるのか。ただ暗記と文字に頼る俗儒に端を発し、自分の国が自分の国であることを知らないところにまで至った。ああ、家の鶏を軽んじて野の雉を愛するとは、なんと徳の衰えたことか。(以上、善隣の礼を論じた。) 応神天皇二十八年秋九月、高麗の王が使いを遣わして朝貢した。そのとき表(上書)を奉った。その表には、高麗王が日本国に教える、とあった。このとき太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、高麗の使いを責めた。表の書きぶりが無礼であるとして、その表を破った。 素行はこう考える。これは表の書きぶりの礼を正したものである。太子が外朝の典籍を読んでから十五年ほどである。しかし外朝との文字の相通が始まってまだ久しくなく、太子の聡明さはあらゆることに通じていたとはいえ、中州(日本)は気を同じくして呼応する関係ではないのだから、どうして速やかに学問の盛んさを得られただろう。高麗は我が国の属国であり、表の書きぶりが無礼であったので、太子は表を破って使いを責めた。その厳しさはこのとおりである。志気と徳量をあわせて考えるべきである。 履中天皇四年秋八月、初めて諸国に国史(記録役)を置いた。言葉と事を記し、四方の事情を中央に伝えさせた。 素行はこう考える。これは国史を置く礼である。 推古天皇十二年夏四月三日、皇太子が自ら初めて憲法十七条を作った。 素行はこう考える。これは憲章の書を作る初めである。 十六年、唐の皇帝に使いを送った。その文に、東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げる、とある。 素行はこう考える。これは詔書の礼である。これ以後、公式の礼が大いに行われた。(詳しくは善隣の礼を論じた条の上に見える。)新羅王・渤海王に璽書を賜るには、天皇が謹んで某国の王に問う、という形を用いた。これは天子が諸侯王に賜る書の礼である。およそ文辞・命令は国家の大きな礼である。文字や言葉による褒貶によって、尊卑親疎の礼を保ち、後世の国史の例とした。草創・討論・潤色の意義は、なおざりにしてはならない。 二十八年、皇太子と島大臣がともに議し、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造・百八十部、並びに公民らの本記を記録した。(蘇我稲目宿禰の子の馬子が、家を飛鳥川のほとりに置き、庭の中に小さな池を掘り、その池の中に小島を築いた。そのため当時の人は島大臣と呼んだ。) 素行はこう考える。これが皇記・国記・本記の始めである。孝徳天皇の時代、鞍作の事件があった。(蘇我臣入鹿、またの名は鞍作。)父の蘇我臣蝦夷は誅される際に、天皇記・国記をことごとく焼いた。船史恵尺はすぐに焼けようとしていた国記を取り出して中大兄(天智天皇)に奉った。この時、往古の典籍はほとんど焼失した。その後、天武天皇が詔して群臣に帝紀および上古の諸事を記し定めさせ、境部連石積らに命じて、新たに字書一部四十四巻を造らせた。これより連綿として典籍が日々作られ、文書が大いに世に行われた。しかし中国(日本)往古の実記は火に入り、旧紀ははっきりしない。ただ灰の中の燃え残りの竹簡を拾って、わずかにこの昔のことを留めているにすぎない。それでも万世の戒めとするに足る。ああ、惜しいことだ。ある人は言語と文字について疑う。私は考える。人にすでに口と舌があれば、音声がある。だから情が発するところ、おのずと言語がある。言語があれば、ついには文字の形が生まれる。その直接に出るものを声といい、節を持つものを音という。その形象で意思を通じ得るものを字といい、その筋道に節度のあるものを文という。これらはみな天地・人・物の自然の勢いである。どうして中国(外朝)だけのことであろう。異民族の聞き取りにくい言葉や、禽獣の吠え声もまた同じである。ただ正しさを得ていないだけだ。往古の神

解説

遣唐使以後に外朝への憧れが強まり、自国を忘れる風潮を嘆く導入のあと、国史、憲法、詔書、本記の編纂を順に礼として並べる箇所です。素行は、記録を残し文辞を整えることを、国家の大きな礼と見ています。蘇我氏の滅亡で典籍が焼かれた経緯にも触れ、記録の喪失を惜しみます。高麗を属国とする記述や応神朝の逸話は、『日本書紀』の記述に基づく素行の見方です。現代の組織でも、議事録や理念文書、社外へ出す文書の筆づかいを軽んじると、足場の記憶が失われます。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

国史憲法十七条詔書本記蘇我氏文字

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