玉勝間 / 四の巻 古言清濁考の事
古へことばの清濁を考るに、今の世に云ふとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云ふに、古事記書紀萬葉は、かな遣ひいと正しくして、清濁をも分て書たれば、これらの書によりて知るべし。此三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に萬葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混ひたるも多けれど、なべてはよく分れたり。萬葉は混ひすくなし。古事記は、まがひたるはをさをさ見えず。たがへるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思へば、後に寫し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云ふとは、ことなるも多きを、人皆、通はし書たりと思ひ、あるは混ひたるなりと思ひ、あるは濁る音には、清音の字をも書る例なり、など思ひをるは、くはしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古、と今と、云ふ言の清濁のかはれるなり。然か云ふ故は、たとへば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて讀みならへれども、此假字、古事記にも書紀にも出で、萬葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用ひて、濁音を用ひたる事無し。
新字:古へことばの清濁を考るに、今の世に云ふとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云ふに、古事記書紀万葉は、かな遣ひいと正しくして、清濁をも分て書たれば、これらの書によりて知るべし。此三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に万葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混ひたるも多けれど、なべてはよく分れたり。万葉は混ひすくなし。古事記は、まがひたるはをさをさ見えず。たがへるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思へば、後に写し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云ふとは、ことなるも多きを、人皆、通はし書たりと思ひ、あるは混ひたるなりと思ひ、あるは濁る音には、清音の字をも書る例なり、など思ひをるは、くはしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古、と今と、云ふ言の清濁のかはれるなり。然か云ふ故は、たとへば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて読みならへれども、此仮字、古事記にも書紀にも出で、万葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用ひて、濁音を用ひたる事無し。
書き下し
古えことばの清濁を考うるに、今の世に云うとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云うに、古事記・書紀・万葉は、かな遺いいと正しくして、清濁をも分けて書きたれば、これらの書によりて知るべし。この三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に万葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混いたるも多けれど、なべてはよく分かれたり。万葉は混いすくなし。古事記は、まがいたるはおさおさ見えず。たがえるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思えば、後に写し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云うとは、ことなるも多きを、人皆、通わし書きたりと思い、あるは混いたるなりと思い、あるは濁る音には、清音の字をも書ける例なり、など思いおるは、くわしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古と今と、云う言の清濁のかわれるなり。然か云う故は、たとえば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて読みならえれども、この仮字、古事記にも書紀にも出で、万葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用いて、濁音を用いたる事無し。
現代語訳
古の言葉の清音・濁音を考えると、今の世に言うのとは異なるものが多い。それは何によって知るのかと言えば、古事記・日本書紀・万葉集は仮名遣いがたいへん正しくて、清濁をも分けて書いているので、これらの書によって知るべきである。この三つの書の中でも、古事記はとりわけ正しく、次に万葉集、次に日本書紀である。書紀は清濁の混じっているものも多いが、おおむねはよく分かれている。万葉集は混じりが少ない。古事記は紛れているものはほとんど見えない。違っているものがまれにあるのは、全体がたいへん正しいことから考えると、後に写し誤ったのであろう。さてその清濁は、今の世に言うのとは異なるものも多いのを、人はみな、通わせて書いたのだと思ったり、あるいは混じったのだと思ったり、あるいは濁る音にも清音の字を書くのが例なのだ、などと思っているのは、詳しくないことである。まったくそういうことではない。古と今とで、言う言葉の清濁が変わったのである。そう言うわけは、たとえば「山」の枕詞の「あしひき」のようなものは、今はみな「ひ」の字を濁って「あしびき」と読み慣わしているけれども、この仮名は古事記にも書紀にも出て、万葉集にはとりわけ多く見えるが、みな清音の仮名ばかりを用いていて、濁音の仮名を用いたことはない。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事一つ二つにては、なお混いつるかの疑いもあらむを、いとあまた見えたる、皆同じきをもて、古えは清みつる事を知るべし。その外の言にも、このたぐいいと多し。古書を考えこころみて、皆なずらえ知るべし。然るに古書を読み、古言を唱うるに、古書のかなには従わずして、今のならいになづみて、濁るべきを清み、濁るまじきを濁りなど、わたくしに定めて読むは、いとみだりなるわざなり。古書を読まむには、古書のかなの清濁にこそ従うべきわざなれ。そもそもおのれ、この清濁の、古と今とかわれる事に心つきて、いかで今のならいにかかわらず、古書のかなに従わばやと、早くより思う事にて、すでに古事記伝の初めの巻にも云いつれども、いとま無くて、もろもろのことばの清濁を、あまねく考えわたす事あたわずして、いと口惜しく思いわたれば、友だちにもこの事つねに語りけるに、おのが教えの子に、遠江の国ふちの郡細田村の人、石塚の龍麻呂なん、この事に心おこして、古書どもを、あまねく委しく考えわたして、この近きほど、古言清濁考と云うふみをあらわしたりける。
-
『玉勝間』十の巻 はじめを濁る詞言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云え、古はみな清みて云えりしなり。この外にもなお有るべし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云う時は、今も清めり。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせおばと有るは、上のハもじ、古は清みてぞ云いけむ。楚は末枝なり、末をスワと云うは、声をコワヅクリなど云うと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、これをムチゴマとも訓めるは、古はフを清める事を知らずして、鞭をも俗にブチと云うにならいて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に経粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云う言は、現の字の音にて、後のことなり。場は、古くも大庭馬場などは見えたれど、ただ場と云えることは見えず。こはもとニワにて、大庭はオオニワ、馬場はウマニワなるを、音便にバとは云いなせるなり。また可如などのたぐいは、上に言有りて続く意なれば、異ことなり。
-
『玉勝間』一の巻 音便の事古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり。後の世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつ見えそめて、世々をふるままに、ようように多くなれり。そは漢字三音考の末に云える如く、おのづから定まり有りて、もろもろの音便五くさを出でず。抑この音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などを読むには、一つもまじう可きにあらざるを、後の世の物知り人、その本の語をわきまえずして、世のつねに云いなれたる音便のままに読むは、なおざりなる事なり。すべて後の世には、音便の言いといと多くして、まどいやすし。本の語をよく考えて、正しく読むべきなり。中にもンと云う音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便なりとこころうべし。さてその音便のンの下は、本の語は清音なるをも濁らるる音なれば、皆必ず濁る例なり。たとえばネモコロと云う言を、後にはネンゴロと云うが如し。ンの下のコ文字、本の語は清音なるを、上のモをンと云うにひかれて濁る、みなこの格なり。然るを世の人、その音便のときの濁りに口なれて、正しく読むときも、ネモゴロと、コをにごるはひが事なり。この例多し。心得おくべし。
-
『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事この考によりて見れば、おのれさきにあらわしたりつる、神代正語などにも、なおまれまれには、考え及ばざりし事もあるなり。古え学びせむともがらは、この清濁考、必ず見るべき書ぞかし。
-
『玉勝間』一の巻 また書紀の今の本は、もじの誤りもところどころ有り。また訓も、古言ながら、多くは今の京になりての云いざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいと古くめづらかにたふとき事もまじれるを、その訓おおくは全からず。あるいはなかば欠け、あるいはもじあやまりなど、すべてうるわしからず、しどけなきは、いといとくち惜しきわざなり。板本一つならでは世に無く、古き写し本はたいと稀なれば、これかれをくらべ見て、直すべき便りも無く、すべて今これをきよらにうるわしく、改め直さむ事は、いといとかたきわざなり。今の世の物知り人、おのれ古のこころ詞をうまらに明らめ得たりと思いがおなるも、なおひがことのみ多かれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこないぞ多かるべき。されば今これをえり改めむとならば、文字の誤りをのみただして、訓をば、暫らくもとのままにて有らむかたぞ、まさりぬべき。
-
『玉勝間』一の巻 古書どもの事かくて風土記も、今の世にもかれこれと有るは、はじめの奈良の御代のには有らず、やや後の物にて、そのさま古きとはいたくかわりて、大かたおかしからぬものなり。その中に、豊後国のは、奈良のなれど、ただいささかのこりて、全からず。そもそも斯くはじめの善きは絶えて、後の悪ろきがのこれるは、いかなるゆえにかと思うに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、古くてからめかぬをば好まず、後のいささかもからざまに近きをよろこべる故なるべし。神代の巻も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、ようぜぬをもてなずらえ知るべし。さて然かもとの風土記はみな絶えぬる中に、国はしも多かるに、出雲ののこれる事は、まがことの中のいみしきさきわいなり。また日本紀はもとより絶ゆまじきことわりなるを、古事記・万葉集のたまたまに絶えで残れるは、殊にいみしき後の世のさきわいなり。大かた今の世にして、古のすがたを知る事は、もはらこの二ふみのみたまになむ有りける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る