玉勝間 / 十三の巻 常陸ノ国なる大洗磯前ノ神
同紀に、齊衡三年十二月戊戌、常陸國上言。鹿島郡大洗磯前、有神新降。初郡民有煮海爲鹽者、夜半望海、光耀屬天、明日有兩怪石、見在水次、高各尺許、體於神造、非人間石、鹽翁私異之。去後一日、亦有廿餘小石、在向石左右、似若侍坐。彩色非常、或形沙門、唯無耳目、時馮人云、我是大奈母知少比古奈命也、昔造此國訖、去往東海、今爲濟民、更亦來歸。また天安元年八月乙丑朔辛未、在常陸國大洗磯前酒列磯前等神、預官社。十月乙丑朔己卯、在常陸國大洗磯前酒列磯前兩神、號藥師菩薩名神。神名帳に、常陸國鹿島郡、大洗磯前藥師菩薩神社(名神大)那賀郡、酒列磯前藥師菩薩神社名神大)と見えたる、藥師は、くすしと訓ムべし、藥の神のよしなり。かのやくしと云ふ佛の名をとれるにはあらじ。さて酒列磯前の社は、かの二柱のうちを、分けて祭れるなるべし、他神とは聞えず。また件の二社おのおの一座なればなり。さてこの大洗磯前のあたりは、大かた十里ばかりが程、すべて石の無き國なるを、今も年ごとに、一夜のまに、此碕にここらの石の寄るを、正月の十六日に民ども取ッて、つねに用ふに、足らざる事無し。これ此二柱ノ神の、然して民にあたへ給ふなりと、云ひ傳へたりと、かの國人かたりき。
新字:同紀に、斉衡三年十二月戊戌、常陸国上言。鹿島郡大洗磯前、有神新降。初郡民有煮海為塩者、夜半望海、光耀属天、明日有両怪石、見在水次、高各尺許、体於神造、非人間石、塩翁私異之。去後一日、亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐。彩色非常、或形沙門、唯無耳目、時馮人云、我是大奈母知少比古奈命也、昔造此国訖、去往東海、今為済民、更亦来帰。また天安元年八月乙丑朔辛未、在常陸国大洗磯前酒列磯前等神、預官社。十月乙丑朔己卯、在常陸国大洗磯前酒列磯前両神、号薬師菩薩名神。神名帳に、常陸国鹿島郡、大洗磯前薬師菩薩神社(名神大)那賀郡、酒列磯前薬師菩薩神社名神大)と見えたる、薬師は、くすしと訓ムべし、薬の神のよしなり。かのやくしと云ふ仏の名をとれるにはあらじ。さて酒列磯前の社は、かの二柱のうちを、分けて祭れるなるべし、他神とは聞えず。また件の二社おのおの一座なればなり。さてこの大洗磯前のあたりは、大かた十里ばかりが程、すべて石の無き国なるを、今も年ごとに、一夜のまに、此碕にここらの石の寄るを、正月の十六日に民ども取ッて、つねに用ふに、足らざる事無し。これ此二柱ノ神の、然して民にあたへ給ふなりと、云ひ伝へたりと、かの国人かたりき。
書き下し
同紀に、斉衡三年十二月戊戌、常陸国上言す。鹿島郡大洗磯前に、神有りて新たに降る。初め郡民に海を煮て塩を為る者有り、夜半に海を望むに、光耀天に属く、明日両の怪石有り、水次に見在す、高さ各尺許り、体神造に於いて、人間の石に非ず、塩翁私かにこれを異とす。去りて後一日、また廿余の小石有り、向かう石の左右に在り、侍坐するが若きに似たり。彩色常に非ず、或いは沙門を形どる、ただ耳目無し、時に人に馮りて云う、我は是れ大奈母知少比古奈命なり、昔此の国を造り訖りて、去りて東海に往く、今民を済わんが為に、更にまた来帰すと。また天安元年八月乙丑朔辛未、常陸国に在る大洗磯前酒列磯前等の神、官社に預かる。十月乙丑朔己卯、常陸国に在る大洗磯前酒列磯前の両神を、薬師菩薩名神と号す。神名帳に、常陸国鹿島郡、大洗磯前薬師菩薩神社(名神大)那賀郡、酒列磯前薬師菩薩神社(名神大)と見えたる、薬師は、くすしと訓むべし、薬の神のよしなり。かのやくしと云う仏の名をとれるにはあらじ。さて酒列磯前の社は、かの二柱のうちを、分けて祭れるなるべし、他神とは聞こえず。また件の二社おのおの一座なればなり。さてこの大洗磯前のあたりは、大かた十里ばかりが程、すべて石の無き国なるを、今も年ごとに、一夜のまに、この碕にここらの石の寄るを、正月の十六日に民ども取って、つねに用うに、足らざる事無し。これこの二柱の神の、然して民にあたえ給うなりと、云い伝えたりと、かの国人かたりき。
現代語訳
同じ『文徳実録』に、「斉衡三年十二月戊戌、常陸国が上申した。鹿島郡の大洗の磯の崎に、神が新たに降りられた。初め、郡の民で海水を煮て塩を作る者がいて、夜中に海を眺めると、光り輝くものが天まで届いていた。翌日、二つの不思議な石が波打ち際に現れていた。高さはそれぞれ一尺ほどで、形は神の造ったもので、人の世の石ではない。塩焼きの翁はひそかにこれを不思議に思った。一日たって、また二十余りの小石があり、向かい合う石の左右に並んで、お供をして座っているかのようであった。色合いはただならず、あるいは僧の姿に似ていたが、ただ耳と目がなかった。その時、神が人に乗り移って言った。『私は大奈母知(大国主)・少比古奈命である。昔この国を造り終えて、去って東の海に行ったが、今、民を救うために、再び帰って来たのである』」とある。また「天安元年八月七日、常陸国にある大洗磯前・酒列磯前などの神を官社に加えた」、「十月十五日、常陸国にある大洗磯前・酒列磯前の両神を薬師菩薩名神と号した」とある。『延喜式』神名帳に「常陸国鹿島郡、大洗磯前薬師菩薩神社(名神大)、那賀郡、酒列磯前薬師菩薩神社(名神大)」と見えている「薬師」は、「くすし」と訓むべきで、薬の神という意味である。あの「やくし」という仏の名を取ったのではあるまい。さて酒列磯前の社は、その二柱のうちを分けて祀ったものであろう。別の神とは思われない。またこの二社はそれぞれ一座だからである。さて、この大洗の磯の崎のあたりは、およそ十里ほどの間、まったく石のない土地なのに、今も毎年、一夜のうちにこの崎にたくさんの石が寄って来るのを、正月十六日に民が取って日ごろ用いるのに、足りないことがない。これはこの二柱の神が、そうして民にお与えになるのだと言い伝えている、とその国の人が語った。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文上の件の文、いみじく古き所どころ有りて、聞え難きふしぶし多かるを、今の本、文字の誤さえ多くて、いよいよさとり難き所どころ有るを、しいて解く。国引坐とは、(坐の字座と書ける本も有り)すなわちこの文に見えたる如く、他国の余あるところを、裂き取り引き寄せ以て来て、出雲の国の足らざる所を足して、造りおえ給えるを云う。この御功をもて、この神をかく称え申せるなり。大国主の神を、天の下造らしし大神と申すが如し。八束水臣津野の命は、古事記に、淤美豆奴の神と有りて、須佐之男大神の四世の御孫にて、深淵之水夜礼花神の御子にて、大国主の大神の御祖父神なり。この風土記の中にも、所々見え給えり。狭布之堆国、堆の字は、写し誤りなるべし。遠江国の人内山の真龍、この風土記の注を作りて、稚の字なりと云えり。さも有るべし。狭布よりの続き名は、疎けれども、すべてにかけて、稚国と云いつべき事なり。古事記にも書紀にも、国稚と有れば、よし有りておぼゆ。初国、小所作とは、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神の、初めて生成し給える時に、小さくつくり給えりとなり。そのかみこの出雲の国は、北の方足らわずして、狭布のごとく、狭く細き国なりけむ。
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『玉勝間』十三の巻 出雲の大社の御事出雲の大社、建久のはじめの頃、鎌倉より、庄園に課役をおおせて、改め造らる。その後又嘉禄のころ、先の例によりて、課役をおおせて、造られむとせしに、御殿の柱に虫くいの文字あり。見れば、大いに傾き傾く物に居るは、朕が素意に非ず、若し人徳に帰せば、高木に栖みて足らんと有り、国造出雲の臣政孝、国司右衛門尉昌綱、守護佐佐木信濃の前司泰清と共に議りて、官家に申されければ、鎌倉の北条、いたく驚きあやしみて、官庫の金穀を出だして、造り奉りて、庄園の課役をば停められけり。これを世に、虫くいの託宣と云えり。この事、国造の家の記にしるせりと、千家〓主出雲の宿禰俊信のものがたりなり。俊信は、今の国造の叔父にて、宣長がおしえ子なり。宣長がこの事を聞きていわく。北条が、課役をやめて、官庫の物を出だして、造り奉れるは、いとよろし。もとより然あるべきこと論無し。されどこの虫喰いの託宣は、後の世人の漢意にして、神の御心にあらず。古事記の上巻又垂仁の御巻などに、この大神の申し給える御言の意と、うらうえのたがいなればなり。さればこの託宣は、そのかみ北条にへつらいて、造れる事とこそおぼゆれ。すべて神の御心を、かく仏聖人と同じごとしなさむとするは、後の世人の心なり。又この大神、漢文をも、かばかり作り給う程ならむに、朕の字の、非の字の上に有る拙さこそ、いといとおかしけれ。
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