玉勝間 / 七の巻 物書くに心すべき事
古へは、かたへの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書ても、讀みたがふる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みづからこそ心得たらめ、かたへの人は、心得たらねば、ともすれば、讀みたがへ、寫しひがむるたぐひのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思ひとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、讀みたがへやせん、寫しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたはには有るなり。又古言などは、殊に人の讀みたがへ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく讀ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ことに假字づけしなどして、心高き人には、わらはるるを、みづからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
新字:古へは、かたへの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書ても、読みたがふる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みづからこそ心得たらめ、かたへの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがへ、写しひがむるたぐひのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思ひとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがへやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたはには有るなり。又古言などは、殊に人の読みたがへ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ことに仮字づけしなどして、心高き人には、わらはるるを、みづからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
書き下し
古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
現代語訳
昔は周りの人もみな心得がはっきりしていたから、どう書いても読み違えることがなかったのでそれでよかったのだが、今の世は、自分は心得ていても、周りの人は心得ていないので、ともすれば読み違え、写し誤るたぐいばかりが多い。だから、ものを書くには何としても気をつけるべきだと、私は思い定めているのである。そういうわけで私の癖として、いつもものを書くときに、読み違えはしないか、写し誤りはしないかとばかり気をつけるので、もともとたいそう拙い筆跡をいっそう縮こまらせて、ぶざまになっているのである。また古い言葉などは、とくに人が読み違え、誤ることが多いので、なんとか誤らずに正しく読ませようとするうちに、そうしなくてもよい所にもそのたびに振り仮名を付けたりして、志の高い人には笑われるのを、自分でも一方では知りながら、染みついた癖は、なかなか離れがたいものなのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事またかくれが、すみかなどのカに、家の字を書くは、ひがことなり。これらのカは、処の意にて、家と云う事には有らず。されど処と書くべきにはた有らざれば、ただ仮字に書くぞ善き。また隠が、住かなど、上を真字、下を仮字に書きたるは、こちなく見ゆ。このたぐい皆同じ。さびしに淋の字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠の字もいかが、詠は、声を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さてまた常に目なれぬ文字をつかう事、すべて悪ろし。すべて上の件のたぐいの事ども、なおいと多かるを、今はただ思い出ずるままに、一つ二つ云えるのみなり。なずらえて心得べし。そもそも古人は、必ずさしもこまかには物せず、物書きたるも、おおらかにて、文字なども、心にまかせて書きたれば、今もただいかに書きても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思う人、有るべし。すべて古をこのみて、万ずに心高からむとかまうる人は、かかる事云うをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、それ然しも有らじ。
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『玉勝間』六の巻 手書く事よろずよりも、手はよく書かまほしきわざなり。歌詠み学問などする人は、ことに手悪しくては、心おとりのせらるるを、それ何かは苦しからんと云うも、一わたりことわりは然る事ながら、なおあかず、うち合わぬ心地ぞするや。のり長いとつたなくて、常に筆とるたびに、いと口惜しゅう、云うかいなく覚ゆるを、人の乞うままにおも無く短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、我ながらだに、いとかたわに見苦しゅう、かたくななるを、人いかに見るらんと、はずかしく胸いたくて、若かりしほどに、などて手習いはせざりけむと、いみしゅうくやしくなん。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事歌など、またさらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云うたぐいの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書く事なれども、然か書きては、あるはとも、あらばとも読まれ、その外もそのじょうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有り。さればかくたがいに読みまがうべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。また霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などように云うを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云う時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などように、はたらく文字をそえて書くべし。すべてかく体と用とにつかう詞は、用の時は、はたらく文字を添えて書かざれば、まぎるること有るなり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐいなり。またもみじばと云うに、ただ紅葉とのみ書きては、もみじとのみ云うと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有るまじき書きざまなり、もみじ葉と書くべきなり。葉をば真字に書くべし、これをもともに仮字に書きては、テニヲハのハにまぎるればなり。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事ただしまたみづからこそ、初めのをば悪ろしと思いて、改めつれ、またのちに人の見るには、なお初めのかたよろしくて、後のはなかなかに悪ろきも無きにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人の心になむ。
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『玉勝間』八の巻 今の人の歌文ひがこと多き事近き世の人のは、歌も文も、大かたはよろしと見ゆるにも、猶ひが事の多きぞかし。されど其のたがえるふしを、見知れる人はた世に無ければ、唯だかいなでに、此処かしこえんなる詞を使い、よしめきて、詠みなし書き散らしたるをば、誠に善しと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したり顔すめる、いとかたはら痛く、おこがましくさえぞ思わるる。さるにつけては、斯く云うおのが物する事も、猶いかにひが事有らむと、物よく見知れらむ人の心ぞ、恥しかりける。人のひが事の、よく見え分かるるにつけては、我はよくわきまえたれば、ひが事はせずと、思いほこれど、古えの事の心をさとり知るすじは、限り無きわざにし有れば、此外あらじとは、いとなん定め難きわざなりける。
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