玉勝間 / 十三の巻 子日の宴
同書に、天安元年春正月乙丑云云、禁中有曲宴、預之者、不過公卿近侍數十人、昔者上月之中、必有此事、時謂之子日態也、今日之宴、修舊迹也とある、これは必ず子にあたる日に有るべき事なるに、乙丑ノ日のところに記されたるは、いふかし。今思ふに、此上に、庚申ノ日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重上表曰とて、其文を記したる次にあれば、件の二度の上表ノ文を引つづけて記したるにつきて、其中間の甲子ノ日にしるすべきが、紛れたるにはあらざるか。
新字:同書に、天安元年春正月乙丑云云、禁中有曲宴、預之者、不過公卿近侍数十人、昔者上月之中、必有此事、時謂之子日態也、今日之宴、修旧迹也とある、これは必ず子にあたる日に有るべき事なるに、乙丑ノ日のところに記されたるは、いふかし。今思ふに、此上に、庚申ノ日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重上表曰とて、其文を記したる次にあれば、件の二度の上表ノ文を引つづけて記したるにつきて、其中間の甲子ノ日にしるすべきが、紛れたるにはあらざるか。
書き下し
同書に、天安元年春正月乙丑云云、禁中に曲宴有り、これに預かる者、公卿近侍数十人に過ぎず、昔は上月の中、必ずこの事有り、時にこれを子日の態と謂うなり、今日の宴、旧迹を修するなりとある、これは必ず子にあたる日に有るべき事なるに、乙丑の日のところに記されたるは、いぶかし。今思うに、この上に、庚申の日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重ねて上表して曰くとて、その文を記したる次にあれば、件の二度の上表の文を引きつづけて記したるにつきて、その中間の甲子の日にしるすべきが、紛れたるにはあらざるか。
現代語訳
同じ書(文徳実録)に、「天安元年春正月乙丑云々、宮中で内々の宴があった。これに加わった者は公卿と近侍の数十人にすぎなかった。昔は正月のうちに必ずこの事があり、当時これを子の日の遊びと言った。今日の宴は古い例を再び行ったのである」とある。これは必ず子にあたる日にあるべきことなのに、乙丑の日のところに記されているのは不審である。いま考えてみると、この前に庚申の日に右大臣藤原良房公の上表文を記し、次に「乙丑、重ねて上表して言う」としてその文を記した、その次にあるので、この二度の上表文を続けて記したために、その間の甲子の日に記すべきものが紛れ込んだのではないだろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事同じ記に云わく、永観三年二月十三日戊子、巳の時ばかりに院に参る、今日は御子の日なり、御車に御して紫野に向かわしめ給う、左右丞相、大納言為光・朝光(大将、)済時(大将、)中納言文範(途中布衣)忠清・顕光・重光・保光、右近権中将義懐(散三位布衣、)参議忠〓(右衛門督布衣)公季(布衣、)右近中将道隆(散三位布衣)、公卿皆騎馬にて、直衣を着し下重を着し、纓を以て柏に押す、左大臣追って野口に候う、太上皇野口に於て、御馬に乗り御す、右衛門尉惟風・左馬允親平等、御馬の鎮めと為る、殿上の侍臣皆悉く布衣なり、京の路・野辺に、見物の車□の如し、即ち御在所に御す、其の御装束、幄を立て板敷を敷き、また簾台を立てて御簾を懸け、其の中に軽幄を立つ(南向き)其の東を公卿の座と為す、(南向き)其の幄の東にまた幅を立て、(子午の妻)侍臣の座と為す、御前の四方に屏変を立て、御前に小松を植う、御在所の帳の後に膳所の幅を立つ、御厨子所御膳を供す、(懸盤)陪膳は権中納言顕光、(顕光・重光・保光は布袴を着す、次に公卿及び侍臣に衝重を居う、一巡の後、大納言為光以下侍従等、座を起ちて籠物十捧及び折櫃四本を執り、御前に列す、左大臣御前に於て問いて曰く、各名を称す云云、(左大臣の儲くる所なり、)次に檜破子を御前に居う、左大将并びに正〓・懐遠・時通・下官等の調え備うる所なり、和歌の人を御前に召す、(先ず座を給う、)兼盛朝臣・時文朝臣・元輔真人・重之朝臣・曾禰善正・中原重節等なり、公卿達指したる召し無しと称して、善正・重節等を追い立つ、時通曰く、善正は已に召人の内に在り云云、兼盛を召し、左大臣和歌の題を献ずべき由を仰す、即ち献じて曰く、紫野に於て子の日の松を翫ぶ、兼盛を以て和歌の序を献ぜしむ、
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『玉勝間』二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事この間蹴鞠の事有り、左大将・左衛門督・源中納言・両三位・藤宰相・余及び殿上の侍臣等蹴鞠の事あり、黄昏に及びて仰せて曰く、和歌に至りては、院に於て序を献じ和歌等を置くべし、各者(てえり)、燭を秉りて本院に還り〓御す、公卿を御前に召して歌遊びの事有り、余を召して和歌の講師と為す、右大臣以下和歌を献ず、左大臣は献ぜず、如何如何、左右両丞相に御衣を賜う、納言以下に白掛を賜い、侍臣に疋絹、また御随身に給う、深更に各各分散す、紫野に御する間、内より使右近少将信輔御訪い有り、即ち御簾の外に召し、円座を給いて御消息を申す、余禄を執りて之を被く、拝舞の間、失礼太だ多し、今日四位五位六位皆綾羅を着す、如何、下官は白襖・薄色の狩袴を着するなり。
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『玉勝間』七の巻 年の始のせちと云ふ事年のはじめに、いわゆる振る舞いなどする事を、節と云う。壬生の忠見家集に、或るところの屏風、正月せちするところ有り、春霞たつと云う日をむかえつつ年のあるじと我やなりなむ。
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『玉勝間』十三の巻 白馬ノ節会正月七日の白馬の節会の白馬、古は青馬と云えり。万葉集廿の巻に、「水鳥の、鴨の羽の色の、青馬を、きょう見る人は、限りなしという」、とあるを始めとして続後紀文徳実録三代実録、貞観儀式延喜式などに、多く出でたる、みな青馬とのみ有りて、白馬と云える事は、一つも見えず。然るを円融天皇の御世、天元の頃よりの、家家の記録、又江家次第などには、皆白馬とのみあるは、平の兼盛の集の歌に、ふる雪に色もかわらで牽くものを、たが青馬と名づけそめけむ、と詠めるを見れば、当時既く白き馬を用いられしと見えたり。然れば古よりの青馬をば改めて、白き馬とはせられたるにて、そは延喜より後の事にぞ有りけむ。延喜式までは、青馬とのみあればなり。さて然白馬に改められしは、いかなる故にか有りけむ、詳らかならざれども、源氏物語の榊の巻の河海抄に、年始に白馬を見れば、邪気を去ると云える本文、十節録にありと見え、公事根源にも、十節記とて引かれたり。さるよしにやあらむ。されど猶もとの本文は礼記の月令にて、孟春の月云云、天子青陽の左个に居り、鸞路に乗り、倉龍に駕し、青旂を載せ、青衣を衣、倉玉を服す、と有るによれる事なるべし。倉龍は青き馬なり。
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