中朝事実 / 神器章・宝鏡の神勅・同殿共床から神器の遷座へ
天照太神。手持寶鏡授天忍穗耳尊而祝之曰。吾兒視此寶鏡。當猶視吾。可與同床共殿以爲齋鏡。 一書曰。日神入于天石窟之時。從思兼神議。令石凝姥神鑄日像之鏡。初度所鑄。少不合意。〔是紀伊國日前神也。〕次度所鑄。其狀美麗。〔是伊勢太神也。〕 一書云。乃使鏡作部遠祖天糠戶者造鏡。日神開磐戶而出焉。是時以鏡入其石窟者。觸戶小瑕。其瑕於今猶存。此卽伊勢崇祕之大神也。 謹按。神代之靈器不一。而天祖唯以三種神寶。爲天孫之表物。大神唯以寶鏡詳神勅如此。蓋鏡者本有可明之象。琢之磨之而不息。則日新不暗。襲藏深祕以不顧。則日暗不新。猶人君有可明之質。致之盡之而不止。則其知日新。高威遠下以不規。則其德不正也。夫人君之道。要在明其知。其知不明則云寛仁。云果斷。共不中其節。知至而後云德云勇。可以行之。振古稱人君以明晤。其寄重哉。大神手持寶鏡。別示神勅。以同床共殿。是乃日新日强以無息之實也。治敎之義大哉。凡二神既以白銅鏡。大神鎭坐於伊勢州。亦鏡劒惟從。則乾靈大神之神慮。唯寶鏡而已。其重非劒璽之類。故代代之聖主。旦暮敬拜賢所爲事。是乃因神勅也。〔以上神鏡。〕 崇神帝六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以德治之。是以晨興夕惕。請罪神祇。先是天照太神和大國魂二神。並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢。共住不安。故以天照太神託豐鍬入姬命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。〔神籬。此云比菲呂岐。〕亦以日本大國魂神託淳名城入姬命祭。然淳名城入姬髮落體瘦。而不能祭。 一書曰。神武帝時。天富命率諸齋部。捧持天璽鏡劒。奉安正殿。當此之時。帝之與神其際未遠。同殿共床。以此爲常。故神物宮物亦未分別。宮內立藏號齋藏。令齋部氏永任其職。至于磯城瑞垣朝。漸畏神威。同殿不安。故更令齋部氏率石凝姥神裔天目一神裔二氏。更鑄鏡造劒。以爲護身御璽。是今踐祚之日所獻神璽·鏡·劒也。仍就於倭笠縫邑。殊立磯城神籬。奉遷天照太神及草薙劒。令皇女豐鍬入姬命奉齋焉。
新字:天照太神。手持宝鏡授天忍穂耳尊而祝之曰。吾児視此宝鏡。当猶視吾。可与同床共殿以為斎鏡。 一書曰。日神入于天石窟之時。従思兼神議。令石凝姥神鋳日像之鏡。初度所鋳。少不合意。〔是紀伊国日前神也。〕次度所鋳。其状美麗。〔是伊勢太神也。〕 一書云。乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡。日神開磐戸而出焉。是時以鏡入其石窟者。触戸小瑕。其瑕於今猶存。此即伊勢崇秘之大神也。 謹按。神代之霊器不一。而天祖唯以三種神宝。為天孫之表物。大神唯以宝鏡詳神勅如此。蓋鏡者本有可明之象。琢之磨之而不息。則日新不暗。襲蔵深秘以不顧。則日暗不新。猶人君有可明之質。致之尽之而不止。則其知日新。高威遠下以不規。則其徳不正也。夫人君之道。要在明其知。其知不明則云寛仁。云果断。共不中其節。知至而後云徳云勇。可以行之。振古称人君以明晤。其寄重哉。大神手持宝鏡。別示神勅。以同床共殿。是乃日新日強以無息之実也。治教之義大哉。凡二神既以白銅鏡。大神鎮坐於伊勢州。亦鏡劒惟従。則乾霊大神之神慮。唯宝鏡而已。其重非劒璽之類。故代代之聖主。旦暮敬拝賢所為事。是乃因神勅也。〔以上神鏡。〕 崇神帝六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕惕。請罪神祇。先是天照太神和大国魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢。共住不安。故以天照太神託豊鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。〔神籬。此云比菲呂岐。〕亦以日本大国魂神託淳名城入姫命祭。然淳名城入姫髪落体痩。而不能祭。 一書曰。神武帝時。天富命率諸斎部。捧持天璽鏡劒。奉安正殿。当此之時。帝之与神其際未遠。同殿共床。以此為常。故神物宮物亦未分別。宮内立蔵号斎蔵。令斎部氏永任其職。至于磯城瑞垣朝。漸畏神威。同殿不安。故更令斎部氏率石凝姥神裔天目一神裔二氏。更鋳鏡造劒。以為護身御璽。是今践祚之日所献神璽·鏡·劒也。仍就於倭笠縫邑。殊立磯城神籬。奉遷天照太神及草薙劒。令皇女豊鍬入姫命奉斎焉。
書き下し
天照太神、手に宝鏡を持ちて天忍穂耳尊に授けて祝ぎて曰く、吾が児、此の宝鏡を視ること当に猶お吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、以て斎鏡と為すべし、と。 一書に曰く、日神、天石窟に入りたまう時、思兼神の議に従い、石凝姥神をして日像の鏡を鋳しむ。初度に鋳る所は、少しく意に合わず。〔是れ紀伊国の日前神なり。〕次度に鋳る所は、其の状美麗なり。〔是れ伊勢太神なり。〕 一書に云う、乃ち鏡作部の遠祖天糠戸をして鏡を造らしむ。日神、磐戸を開きて出でたまう。是の時、鏡を以て其の石窟に入るるに、戸に触れて小瑕つく。其の瑕、今に猶お存す。此れ即ち伊勢崇祕の大神なり。 謹んで按ずるに、神代の霊器は一ならず。而して天祖は唯だ三種の神宝を以て、天孫の表物と為す。大神は唯だ宝鏡を以て、神勅を詳らかにすること此の如し。蓋し鏡とは本より明らかなるべきの象有り。之を琢き之を磨きて息まざれば、則ち日に新たにして暗からず。襲め蔵め深く祕して以て顧みざれば、則ち日に暗くして新たならず。猶お人君に明らかなるべきの質有り、之を致し之を尽くして止まざれば、則ち其の知日に新たなり。高威遠下して以て規らざれば、則ち其の徳正しからざるがごとし。夫れ人君の道は、要は其の知を明らかにするに在り。其の知明らかならざれば、寛仁と云い、果断と云うも、共に其の節に中らず。知至りて後、徳と云い勇と云う、以て之を行うべし。振古、人君を称するに明晤を以てす。其の寄せ重きかな。大神、手に宝鏡を持ち、別に神勅を示して、同床共殿を以てす。是れ乃ち日に新たに日に強くして息む無きの実なり。治教の義、大なるかな。凡そ二神は既に白銅鏡を以てす。大神は伊勢州に鎮坐し、亦た鏡剣惟れ従う。則ち乾霊大神の神慮は、唯だ宝鏡のみ。其の重きこと剣璽の類に非ず。故に代代の聖主、旦暮に賢所を敬拝することを事と為す。是れ乃ち神勅に因るなり。〔以上、神鏡。〕 崇神帝六年、百姓流離し、或いは背叛有り。其の勢い、徳を以て之を治め難し。是を以て晨に興き夕に惕れ、罪を神祇に請う。是より先、天照太神・倭大国魂の二神を、並びに天皇の大殿の内に祭る。然れども其の神勢を畏れ、共に住みて安からず。故に天照太神を豊鍬入姫命に託け、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。〔神籬、此れを比莒呂岐と云う。〕亦た日本大国魂神を淳名城入姫命に託けて祭らしむ。然れども淳名城入姫、髪落ち体痩せて、祭ること能わず。 一書に曰く、神武帝の時、天富命、諸の斎部を率いて、天璽の鏡剣を捧げ持ち、正殿に奉安す。此の時に当たりて、帝と神との際、未だ遠からず。殿を同じくし床を共にすること、此を以て常と為す。故に神物・宮物も亦た未だ分別せず。宮内に蔵を立て、斎蔵と号す。斎部氏をして永く其の職に任ぜしむ。磯城瑞垣の朝に至りて、漸く神威を畏れ、殿を同じくして安からず。故に更に斎部氏をして石凝姥神の裔、天目一神の裔二氏を率いて、更に鏡を鋳、剣を造らしめ、以て護身の御璽と為す。是れ今の践祚の日に献ずる所の神璽・鏡・剣なり。仍りて倭の笠縫邑に就き、殊に磯城の神籬を立て、天照太神及び草薙剣を奉遷して、皇女豊鍬入姫命をして奉斎せしむ。
現代語訳
天照太神は手に宝鏡を持って天忍穂耳尊に授け、言祝いで言った。わが子よ、この宝鏡を見ることは、わたしを見るようにしなさい。床を同じくし殿を共にして、斎鏡としなさい、と。 一書に言う。日神が天の岩屋に入られたとき、思兼神の議に従い、石凝姥神に日の像の鏡を鋳させた。最初に鋳たものは、少し意に合わなかった。(これは紀伊国の日前神である。)二度目に鋳たものは、その姿が美しかった。(これが伊勢の太神である。) 一書に言う。そこで鏡作部の遠祖の天糠戸に鏡を造らせた。日神は岩戸を開いて出てこられた。この時、鏡をその石窟に入れたところ、戸に触れて小さな傷がついた。その傷は今もなお残っている。これがつまり伊勢の崇め秘する大神である。 素行はこう考える。神代の霊器は一つではない。しかし天祖はただ三種の神宝だけを、天孫の証しの物とした。大神はただ宝鏡によって、神勅をこのように詳しく示した。思うに、鏡とはもともと明らかになるべき性質を持っている。これを琢き磨き続ければ、日に新しく暗くならない。しまい込んで深く秘して顧みなければ、日に暗くなり新しくならない。人君に明らかになるべき素質があり、これを尽くして止まなければ、その知は日に新たになる。高い威を振るって下を顧みず規範を考えなければ、その徳は正しくならないのと同じである。人君の道は、その知を明らかにするところに要点がある。その知が明らかでなければ、寛仁といい、果断といっても、どちらもその節度に当たらない。知が至って後に、徳といい勇といって、これを行うことができる。昔から人君を称えるのに明晤(聡明)をもってしてきた。その寄せられる重みよ。大神が手に宝鏡を持ち、別に神勅を示して、同床共殿とした。これが日に新たに日に強くして休まないことの実である。治教の意義は大きい。そもそも二神はすでに白銅鏡を用いた。大神は伊勢国に鎮座し、また鏡と剣が従っている。すると天霊の大神の神慮は、ただ宝鏡にある。その重さは剣や璽の類ではない。だから代々の聖主は、朝夕に賢所を敬拝することを務めとしている。これは神勅によるのである。(以上、神鏡。) 崇神帝六年、民が流離し、背く者もいた。その勢いは徳によって治めがたかった。そこで朝早く起き夕べに慎み、罪を神祇に詫びた。これより前、天照太神・倭大国魂の二神を、並べて天皇の大殿の内に祭っていた。しかしその神の勢いを畏れ、一緒に住んで安らかでなかった。そこで天照太神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑に祭った。そして磯堅城の神籬を立てた。(神籬は「ひもろき」と読む。)また日本大国魂神を淳名城入姫命に託して祭らせた。しかし淳名城入姫は、髪が抜け体が痩せて、祭ることができなかった。 一書に言う。神武帝の時、天富命が諸の斎部を率いて、天璽の鏡と剣を捧げ持ち、正殿に奉安した。この時、帝と神との間はまだ遠くなかった。殿を同じくし床を共にすることが常だった。だから神の物と宮の物もまだ区別しなかった。宮内に蔵を建て、斎蔵と名づけた。斎部氏に永くその職を任せた。磯城の瑞垣の朝(崇神朝)に至って、次第に神威を畏れ、殿を同じくして安らかでなくなった。そこで改めて斎部氏に、石凝姥神の子孫と天目一神の子孫の二氏を率いさせ、新たに鏡を鋳て剣を造らせ、護身の御璽とした。これが現在、践祚の日に献じる神璽・鏡・剣である。そして倭の笠縫邑に赴き、特に磯城の神籬を立て、天照太神および草薙剣を遷し奉って、皇女の豊鍬入姫命に奉斎させた。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『中朝事実』神器章・神戈と三種神器・玉鏡剣が表す徳伊弉諾尊・伊弉冊尊、天浮橋の上に立ち、共に計りて曰く、底下に豈に国無からんや、と。乃ち天の瓊〔瓊は玉なり。此れを努と云う。〕矛を以て指し下して探る。是に滄溟を獲たり。其の矛の鋒より滴瀝る潮、凝りて一島と成る。名づけて磤馭廬島と曰う。〔瓊矛、或いは瓊戈に作る。〕 一書に云う、天祖、伊弉諾・伊弉冊二尊に詔して曰く、葦原の千五百秋の瑞穂の地有り、宜しく汝往きて脩むべし、と。則ち天瓊戈を賜う。〔旧事紀。〕 一書に云う、天照太神・高皇産霊尊、仍りて相謂りて、三種の神宝を以て、皇孫に授け賜い、永く天璽と為す。矛玉自ら従う。〔忌部広成記。〕 一書に云う、豊葦原の千五百秋の瑞穂国とは、大八洲未だ生れざる以前に已に其の名有り、名字有りと雖も形相無し。強いて其の形を字して天瓊矛と為すものなり。大八洲国とは、即ち瓊矛の成す所なり。其の中心を、大日本日高見と号す。〔源親房記。〕 謹んで按ずるに、神代の霊器は一ならず。而して天祖、二神に授くるに瓊矛を以てし、任ずるに基を開くを以てす。瓊とは玉なり。矛とは兵器なり。矛に玉を以てするは、聖武にして殺さざるなり。蓋し草昧の時、暴邪を撥い平げ、残賊を駆り去るは、武威に非ざれば終に得べからず。故に天孫の降臨も、亦た矛玉自ら従うとは是れなり。凡そ中国の威武は、外朝及び諸夷、竟に之を企望すべからざること、尤も由有るなり。〔以上、神戈。〕 天孫天降りたまう時、天照太神、乃ち八坂瓊曲玉及び八咫鏡・草薙剣の三種の宝物を賜う。 一書に云う、天祖天照太神・高皇産霊尊、乃ち相語りて曰く、夫れ葦原瑞穂国は、吾が子孫の王たるべき地なり、と。即ち八咫鏡及び草薙剣の二種の神宝を以て、皇孫に授け賜い、永く天璽と為す。〔所謂る神璽・剣・鏡是れなり。〕矛玉自ら従う。 謹んで按ずるに、是れ皇代受授の三種の神器なり。蓋し八坂瓊曲玉とは、櫛明玉命の造れる所の瑞玉なり。〔櫛明玉、又た羽明玉と名づく。又た天明玉と名づく。伊弉諾尊の子。〕八咫鏡とは、石凝姥神の鋳る所の霊鏡なり。〔石凝姥は天糠戸命の子。鏡を作る遠祖なり。〕草薙剣とは、大蛇の尾に在りし宝剣なり。共に大功を此の国に有す。而して玉は以て温仁の徳を表すべく、鏡は以て致格の知を表すべく、剣は以て決断の勇を表すべし。其の象る所、其の形る所は、皆な天神の至誠なり。此の時未だ嘗て三徳の名有らず。而して自ら其の名義を存するのみに非ず。又た此の霊器の相備わること有り。唯だ此の霊器有るのみに非ず。又た此の霊器の功を成すこと有り。最も畏るべきの甚しきなり。竊かに按ずるに、三器とは天神の功器にして、三徳の全備なり。聖主此を用いて、内に其の睿心を鑑み、外に其の治教を制す。是れ乃ち神代の遺勅か。若し専ら三器を擁して内を正さざれば、則ち虚器にして霊用無し。若し唯だ性心を弄びて外を知らざれば、則ち雕空にして神器無し。凡そ外朝には、夏に九鼎有り、殷周相伝う。秦は卞玉を刻して以て国璽と為す。漢は斬蛇剣を以て伝国の宝と為す。後世、明堂に坐し伝国璽を執るを以て、九鼎を列するを天下の三器と為す。中朝の神器に比すれば、則ち同日にして語るべからず。況んや赤刀・大訓・弘璧・琬琰の属は、唯だ宗器のみ。蓋し皇統の受授は、必ず三神器を以て寶祚の永久を期し、伝国の信誠を表す。聖主は必ず殿を同じくし床を共にして、以て治平の道を崇ぶ。中洲の渾厚、系連綿遠の無窮なるは、皆な神聖の致す所なり。〔以上、三種神器。〕
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『中朝事実』祭祀章・神衣と宗廟・祭祀の始まり天照太神、方に神衣を織りたまふ。斎服殿に居ます。 謹按。是れ天神を祭祀するの義なり。祭祀の説無しと雖も、既に神衣と曰ひ、既に斎服殿と曰へば、則ち神自ら之を織りて、以て神明に供ふるなり。大神の霊、親ら其の機巧を営み、天神に事へたまふ。其の至誠は竊かに按ずべきなり。朝廷終に神衣祭有り。参河の赤引の神調糸を以て、神衣を織り作り、以て伊勢太神宮に供ふ。〔此れ神服部等なり〕是れ乃ち往古の至誠を以て神に事へし遺則なり。〔孟夏・季秋に神衣祭有り。伊勢神宮の祭を謂ふなり。斎戒潔清して織り成すなり。或ひと疑ふ、神書に謂ふ所の神衣とは、大神の親服ならむかと。愚謂へらく、自ら服するを豈に神衣と曰はむや。令義解に云ふ、以て神明に供ふるなりと。神衣と曰ふは、是れ神の織りて天神に供ふる服なり。故に素戔嗚尊の悪は最も悪むべきなり。以上、天神を祭る。〕 高皇産霊尊、因りて勅して曰はく、「吾は則ち天津神籬及び天津磐境を起こし樹てて、当に吾が孫の為に奉斎せむ。汝天児屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾が孫の為に奉斎すべし」と。乃ち二神をして天忍穂耳尊に陪従して以て降らしむ。是の時、天照太神、手に宝鏡を持ちて、天忍穂耳尊に授けて、祝ひて曰はく、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に猶ほ吾を見るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、以て斎鏡と為したまへ」と。復た天児屋命・太玉命に勅したまはく、「惟れ爾二神も亦同に殿の内に侍ひて、善く防護を為せ」と。又勅して曰はく、「吾が高天原に御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」と。 謹按。是れ宗廟を建てて祖考を祭祀するの礼なり。神籬は乃ち宗廟なり。宝鏡は乃ち宗廟の主なり。故に斎鏡と曰ふ。夫れ天祖の霊は物に体して遺さず。然れども宗廟の設け、神主の寄る無ければ、汎として一に定むべからず。故に宗廟以て之を萃め、神主以て之を寄す。而る後に神人の霊気相集まり、至誠通ずべく、斎戒致すべし。是れ天祖因りて勅して神籬を起こし樹てて、以て斎鏡と為したまふなり。夫れ天子は天地を以て父母と為す。故に天神地祇を祭祀して以て其の本に報い、宗廟を建立して以て其の始めを貴ぶは、人君の大礼なり。況んや中国の生成は、直に天神地祇に在るをや。〔令に曰はく、凡そ天皇即位したまはば、総べて天神地祇を祭る。散斎一月、致斎三日。義解に云ふ、天神とは、伊勢・山城の鴨・住吉・出雲国造の斎く神等の類是れなり。地祇とは、大神・大倭・葛木の鴨・出雲の大汝神等の類是れなり。皆常典に依りて之を祭ると。〕蓋し人は未だ嘗て其の父祖を思ふこと無くんばあらず。既に其の父祖を念ふこと有れば、則ち未だ嘗て由りて出づる所を念ふこと無くんばあらず。故に遠くは乃ち其の本始を思ひ、近くは乃ち其の父祖を慕ひて、祭祀の礼起こる。況んや本始に大功有り、父祖に大教有るをや。既に祭祀の礼有れば、則ち其の道、之を致さざるべからず。祭に必ず時有り、祭に必ず地有り、祭に必ず祠部有り、祭に必ず器用奉物有り、祭に必ず斎戒有り、祭に必ず其の事有り。以て其の礼を紀し、以て其の誠を尽くす。是れ祭祀の道なり。祭祀其の礼を致さざれば、則ち神は享くべからず。礼儀誠を以てせざれば、則ち神は格るべからず。礼致り誠至りて、而る後に祭祀の実を得べし。凡そ人の誠は祭祀より大なるは莫し。祭祀の大なるは天地に如くは莫し。万物の生成は天地に帰し、子孫の綿続は祖宗に帰す。是れ天地祖宗の其の本を一にする所以なり。蓋し人は万物の長なり。人君は億兆の長たり。人君、天地を祭祀して、万類の散気をして咸く天に帰せしめ、本に報い始めに反り、親ら其の至誠を尽くすこと、祭祀より大なるは莫きなり。斎とは何ぞ。其の斉しからざるを斉しくするの謂なり。祭祀の議は、斎戒を以て交はるべし。故に天神詳らかに其の礼を勅したまふなり。〔以上、宗廟祭祀の義〕
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『中朝事実』皇統章・同床共殿の勅と天孫降臨の意義一書に曰く、天児屋命・太玉命、天忍穂耳尊に陪従して以て降る。是の時、天照太神、手に宝鏡を持ちて天忍穂耳尊に授けて祝ぎて曰く、吾が児、此の宝鏡を視ること当に猶お吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、以て斎鏡と為すべし、と。復た天児屋命・太玉命に勅す、惟れ爾二神も亦た同じく殿内に侍いて、善く防護を為せ、と。又た勅して曰く、吾が高天原に御す所の斎庭の穂を以て、亦た当に吾が児に御すべし、と。則ち高皇産霊尊の女、万幡姫と号するを以て、天忍穂耳尊に配せて妃と為し、降らしむ。故に時に虚天に居て児を生む。天津彦火瓊瓊杵尊と号す。因りて此の皇孫を以て親に代えて降らしめんと欲す。故に天児屋命・太玉命及び諸部の神等を以て、悉く皆な相授く。且つ服御の物は一に前の授くるに依る。然る後に天忍穂耳尊は復た天に還る。故に天津彦火瓊瓊杵尊、降りて日向の槵日の高千穂の峯に到る。 一書に曰く、天祖天照太神・高皇産霊尊、乃ち相語りて曰く、夫れ葦原瑞穂国は、吾が子孫の王たるべき地なり、と。即ち八咫鏡及び草薙剣の二種の神宝を以て、皇孫に授け賜い、永く天璽と為す。〔所謂る神璽・剣・鏡。〕 謹んで按ずるに、是れ天孫降臨の始めなり。一書に云う、大国主神は亦た大物主神と名づく。亦た国作大己貴命と号す。亦た葦原醜男と曰う。亦た八千戈神と曰う。亦た大国玉神と曰う。亦た顕国玉神と曰う。其の子凡そ一百八十一神有り、と。夫れ大己貴命と少彦名命と、力を戮せ心を一にして天下を経営す。蓋し二神寂然として長く隠れて後、大己貴命〔素戔鳴尊の子。〕・少彦名命〔高皇産霊尊の子。〕、此の国を平げ、大造の績を建つ。大己貴命・其の子事代主神、及び八十万神を天の高市に合わせ、帥いて以て天に昇り、其の誠款の至りを陳ぶ。而して後に天孫此の国に天降りたまう。凡そ天神とは生知の聖神にして、事毎に之を問う。衆言に俯順う、其の兼容の量、噫、至れるかな。配侍せしむる五神は、共に大功を此の国に有する者なり。宝祚の隆えまさんこと、当に天壌と窮まり無かるべし、の十字は、天孫の永祚を祝す、天地の徳に合うなり。真床追衾とは、覆うて外無きの義を表し、沢を蒼生に蒙らしむるの名なり。三種の宝物とは、乃ち天神の霊器、伝国の表物にして、其の寄せ甚だ重し。〔神武帝、饒速日命に詔して曰く、是れ実に天神の子ならば、必ず正に表物有らん。相示すべし、と。蓋し伝国の表物を言う。〕天照太神、手に宝鏡を持ちて之を祝す。神勅至れり尽くせり。聖主万万世の厳鑑なり。此の時未だ教学授受の名有らずと雖も、謹んで此の一章を読み、以て其の義を詳らかにすれば、則ち帝者為治の学は、唯だ力を此に用うるに在るか。異域の堯・舜・禹の受授の説も、亦た豈に此に外ならんや。〔以上、天孫降臨。〕
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『中朝事実』神知章・五神配侍と文武の大臣一書に曰く、天照太神、手に寶鏡を持ち、天忍穗耳尊に授けて、祝ひて曰く、「吾が兒、此の寶鏡を視ること、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし殿を共にして、以て齋鏡と爲せ」と。復た天兒屋命・太玉命に勅したまはく、「惟れ爾二神、亦た同じく殿内に侍ひて、善く防護を爲せ」と。 一書に曰く、高皇產靈尊、眞床覆衾を以て、天津彥國光彥火瓊瓊杵尊を裹み、則ち天磐戶を引き開き、天八重雲を排し分けて、以て奉り降す。時に大伴連の遠祖天忍日命、來目部の遠祖天穗津大來目を帥ゐ、背に天磐靱を負ひ、臂に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓・天羽羽矢を捉り、及び八目鳴鏑を副へ持ち、又頭槌の劒を帶びて、天孫の前に立ち、遊行して降り來たる。日向の襲の高千穗の槵日の二上の峯の天浮橋に到る。 一書に曰く、天孫降りたまふ時、天兒屋根命〔津速產靈神の孫、中臣氏の祖なり。〕天太玉命〔高皇產靈神の子、齋部氏の祖なり。〕天照太神の勅を奉り、左右の扶翼と爲る。今の世の左右の相のごときか。〔親房記。〕 謹んで按ずるに、是れ臣の才を撰ぶの始めなり。治を爲すの道は、人を用ゐるに在り。況んや草味屯難の時をや。凡そ此の五神、既に中國に功有り、今又防護し配侍す。蓋し世臣の舊德、功業已に時に見はれ、聞望已に世に孚あり、高山巨海の如く、其の風采以て具瞻するに足る。初めより運動の勞無くして、功の人に及ぶや厚し。天神此の才を得て、皇孫に依賴の任を付し、以て皇統を正し、以て其の正を養ふ。衣を垂れ手を拱きて、以て其の成るを仰ぐ。何の强暴の服せざらん、雅俗の敦からざらんや。凡そ臣に文武有り、大小有り、親疏有り、一も闕けて全からず。文武の大臣は經綸康濟し、近親の侍臣は董陶涵養す。職の重き者は安危の寄有り、職の親しき者は習染の移り有りと雖も、其の天下の本に繫ること一なり。此の章に五神配侍の事有り、別に二神同殿の勅有り。是れ大臣を敬ふなり。又天忍日命天孫の前に立ち、天鈿目命以て近衞す。是れ雲路を披き山を駈りて蹕ふ時、右に武左に文ありて、威武の義を鳴らすなり。吁、其の人を得、其の禮を正し、其の道の至りを致すこと、後世企望すべきに非ざるなり。此の時既に輔弼大臣近衞の職有り、天工人其れ之に代はる。後に官を立て人を任ずること、忽にすべけんや。 神武帝甲寅の年東征し、莵狹津媛を以て侍臣天種子命に賜ひて妻とす。天種子命は是れ中臣氏の遠祖なり。戊午の年夏六月、大伴氏の遠祖日臣命、大來目を帥ゐて將を督し元戎し、山を踏み行を啓き、乃ち島の向ふ所を尋ぬ。時に勅して日臣命を譽めて曰く、「汝は忠にして且つ勇あり、加へて能く導の功有り。是を以て汝が名を改めて道臣と爲す」と。辛酉の年春正月、天皇位に卽く。道臣命大來目部を帥ゐ、密策を奉承し、能く諷歌を以てす。二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、以て寵異す。 謹んで按ずるに、一書に天種子命・天富命を以て左右の臣と爲す。又曰く、宇麻志麻治命・櫛日方命を食國の政申す大夫と爲す、と。是れ皆大臣執政の儀なり。此の時文武の臣を以て相並ぶなり。凡そ文と武とは猶ほ左右の手のごとく、陰陽相對し、偏廢すべからず。唯だ時宜を以て先後と爲すのみ。天孫臨降、及び神武帝の時は、皆草味屯蒙の難にして、武臣に非ざれば其の創業を得べからず。故に之を先にし之を賞する所、幷せ見るべきなり。後世に至りて文臣を重んじ武臣を輕んずるは、是れ殆ど上古の神制に異なれり。外朝の聖人政を立つるや、虎賁を以て三事に並べ論じ、樞密を以て中書に並べ稱す。況んや中州は往古より威武を以て皇統を建つるをや。〔以上。文武の大臣を重んず。〕