玉勝間 / 十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文
上件の文、いみしく古き所どころ有て、聞え難きふしふし多かるを、今の本、文字の誤さへ多くて、いよいよさとり難き所どころ有るを、しひて解る。國引坐とは、(坐ノ字座と書る本も有り)すなはち此文に見えたる如く、他國の餘あるところを、裂取引寄せ以來て、出雲ノ國の足ざる所を足して、造リをへ給へるを云ふ。此ノ御功をもて、此神を斯く稱へ申せるなり。大國主ノ神を、天ノ下造大神と申すが如し。八束水臣津野ノ命は、古事記に、淤美豆奴ノ神と有て、須佐之男大神の四世の御孫にて、深淵之水夜禮花神の御子にて、大國主ノ大神の御祖父神なり。此風土記の中にも、所所見え給へり。狹布之堆國、堆字は、寫シ誤リなるべし。遠江國人內山ノ眞龍、此風土記の注を作りて、稚ノ字なりと云へり。さも有べし。狹布よりの續き名は、疎けれども、すべてにかけて、稚國と云ひつべき事なり。古事記にも書紀にも、國稚と有れば、よし有ておぼゆ。初國、小所作とは、伊邪那岐伊邪那美二柱ノ大神の、初めて生成し給へる時に、小くつくり給へりとなり。そのかみ此出雲ノ國は、北ノ方足はずして、狹布のごとく、狭く細き國なりけむ。
新字:上件の文、いみしく古き所どころ有て、聞え難きふしふし多かるを、今の本、文字の誤さへ多くて、いよいよさとり難き所どころ有るを、しひて解る。国引坐とは、(坐ノ字座と書る本も有り)すなはち此文に見えたる如く、他国の余あるところを、裂取引寄せ以来て、出雲ノ国の足ざる所を足して、造リをへ給へるを云ふ。此ノ御功をもて、此神を斯く称へ申せるなり。大国主ノ神を、天ノ下造大神と申すが如し。八束水臣津野ノ命は、古事記に、淤美豆奴ノ神と有て、須佐之男大神の四世の御孫にて、深淵之水夜礼花神の御子にて、大国主ノ大神の御祖父神なり。此風土記の中にも、所所見え給へり。狭布之堆国、堆字は、写シ誤リなるべし。遠江国人内山ノ真竜、此風土記の注を作りて、稚ノ字なりと云へり。さも有べし。狭布よりの続き名は、疎けれども、すべてにかけて、稚国と云ひつべき事なり。古事記にも書紀にも、国稚と有れば、よし有ておぼゆ。初国、小所作とは、伊邪那岐伊邪那美二柱ノ大神の、初めて生成し給へる時に、小くつくり給へりとなり。そのかみ此出雲ノ国は、北ノ方足はずして、狭布のごとく、狭く細き国なりけむ。
書き下し
上の件の文、いみじく古き所どころ有りて、聞え難きふしぶし多かるを、今の本、文字の誤さえ多くて、いよいよさとり難き所どころ有るを、しいて解く。国引坐とは、(坐の字座と書ける本も有り)すなわちこの文に見えたる如く、他国の余あるところを、裂き取り引き寄せ以て来て、出雲の国の足らざる所を足して、造りおえ給えるを云う。この御功をもて、この神をかく称え申せるなり。大国主の神を、天の下造らしし大神と申すが如し。八束水臣津野の命は、古事記に、淤美豆奴の神と有りて、須佐之男大神の四世の御孫にて、深淵之水夜礼花神の御子にて、大国主の大神の御祖父神なり。この風土記の中にも、所々見え給えり。狭布之堆国、堆の字は、写し誤りなるべし。遠江国の人内山の真龍、この風土記の注を作りて、稚の字なりと云えり。さも有るべし。狭布よりの続き名は、疎けれども、すべてにかけて、稚国と云いつべき事なり。古事記にも書紀にも、国稚と有れば、よし有りておぼゆ。初国、小所作とは、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神の、初めて生成し給える時に、小さくつくり給えりとなり。そのかみこの出雲の国は、北の方足らわずして、狭布のごとく、狭く細き国なりけむ。
現代語訳
上の文は、たいへん古い所々があって、分かりにくい箇所が多いうえに、今の本は文字の誤りまで多くて、いよいよ理解しにくい所々があるが、無理にでも解いてみる。「国引坐(くにひきまし)」とは(坐の字を座と書いた本もある)、すなわちこの文に見えるとおり、他の国の余っている所を裂き取って引き寄せて持って来て、出雲国の足りない所を足して、造り終えられたことを言う。この御功績によって、この神をこのように称え申し上げたのである。大国主神を「天の下造らしし大神」と申し上げるのと同じである。八束水臣津野命は、古事記に淤美豆奴神(おみずぬのかみ)とあって、須佐之男大神の四世の御孫で、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)の御子であり、大国主大神の御祖父の神である。この風土記の中にも、ところどころに見えておられる。「狭布之堆国」の堆の字は、写し誤りであろう。遠江国の人、内山真龍(うちやまのまたつ)がこの風土記の注釈を作って、「稚」の字であると言った。そうであろう。「狭布の」からの続きの名としては疎遠だが、全体にかけて「稚国(わかくに)」と言ってよいことである。古事記にも日本書紀にも「国稚し」とあるので、根拠があるように思われる。「初国小所作(はつくにちいさくつくらせり)」とは、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の大神が初めて国を生み成された時に、小さく作られたということである。その当時この出雲国は、北のほうが足りなくて、幅の狭い布のように、狭く細い国だったのであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文意宇と号くる所以は、国引きましし八束水臣津野命詔りたまわく、八雲立つ出雲の国は、狭布の堆国なるかも、初国小さく作らせり、故、作り縫わむと詔りたまいて、栲衾志羅紀の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、去豆の打ち絶えよりして、八穂米支豆支の御埼なり。此くて堅め立てし加志は、石見の国と出雲の国との堺に有る、名は佐比売山是れなり。亦持ち引きし綱は、薗の長浜是れなり。亦北門の佐伎の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、多久の打ち絶えよりして、狭田の国是れなり。亦北門の良波の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、手波の打ち絶えよりして、闇見の国是れなり。亦高志の都都の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔りたまいて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛聞々耶々に、河船の毛々曾々呂々に、国々来々と引き来縫える国は、三穂の埼なり。持ち引ける綱は夜見の島、固め堅め立てし加志は、伯耆の国なる火神岳是れなり。今は国は引き訖えつと詔りたまいて、意宇の社に御杖衝き立てて、意恵と詔りたまいき、故、意宇と云う。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文さて上の例どもによらば、この上にも、自某処打絶而と云う事の有るべきに、ここにのみその詞無きは、この三穂の崎は、東の限りは海なるが故なり。この下に是也と云う二字も有るべきに、無きは、ここには略きて、合わせて下に云えるなり。持引(持の字一本に接と有るは誤なり)夜見島は、島根郡のところに、〓伯耆国郡内夜見島と有る、これなり。固堅(固の字一本に固とあるは誤なり)火神岳は、この風土記の抄に、伯耆の国会見の郡の大山これなりと云えり。さも有るべし。それにつきて思うに、大山は、神名帳に、大神山神社と有れば、火の字は、大を誤れるにはあらざるか。抄は、天和のころ国の人岸崎時照と云えるが作れる物にて、三巻あるなり。是也は、上の三穂之埼、夜見島をも合わせて、一つに云えるなり。引訖(一本に訖の字を記と書けるは誤なり)御杖衝立而、意恵登詔故云意宇、意恵は、事に労きて苦しきを、休息う時の声なり。さて恵は、宇延のつづまりたる音にて、上に宇を帯ぶる故におのずから後に意宇とは成れるなるべし。さてこの臣津野の命の引き来て縫い作り坐せる、すべての地は、島根、秋鹿、楯縫、出雲の四郡にて、東より西へつらなれる地にして、そを西よりつぎつぎに物し給えるなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文この四郡のうち、出雲の郡をのぞきて、三郡は、南の方意宇の郡との中間に、細く長き入海有りて、出雲の郡のみ、意宇神門二郡につづきたり。ここに内山の真龍が考えたるは、神代には、この入海、西の大海へとおりて、出雲の郡も、北の方半は、かの三郡と同じく、入海をへだてて、意宇の郡神門の郡とは、離れてぞ有りけむと云える、今この国引の文を思うにも、まことにさぞ有りけむとぞ覚ゆる。さてこの文に見えたる事どもを、ただ寓言のごとく心得むは、例のから心にぞ有りける。神代には、思いのほかなる、奇しき異しき事どもの有りて、この国土は成り竟えたるなれば、古の伝説を、いささかも疑うべきにあらず。ことごとく実の事なり。ただ文のままに心うべし。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文自去豆乃は、去豆は地の名なり、楯縫の郡に、許豆の社、許豆島、許豆浜など見えて、出雲と楯縫と二郡の堺なりと有り。乃は誤字なるべし。その字いまだ考え得ず。打絶而は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)堺をなして、限るを云う。八穂米は米の字は尒を誤れるなるべし。八百土にて、杵築の枕詞なり。支豆支乃御埼は、分けては今の世に日之御崎と云う処なれども、ここは楯縫の郡の堺までの地を、広く云えるなり。されば杵築の東の方までわたれる山をも、御崎山と云えり。加志は、和名抄の舟の具に、唐韻に云う、状舸は、舟を繋ぐ所以なり、漢語抄に云う、加之、と有る物にて、前漢書の地理志には、牂牁と書きて、註に、船を係ぐ代なりと有り。万葉の歌にも見えたり。かくてここに云えるは、縫い合わせたる国を、また離れゆかざらむために、繋ぎ堅め給えりし状舸なり。佐比売山は、飯石の郡に見ゆ。持引綱はかの国を、挽き来ませる綱なり。薗之長浜は、神門の郡に、即ち水海と大海との間に山有り、長さ廿二里云々、此は意美豆努命の、国引きましし時の綱なり、今俗人号けて薗の松山と云う云々、と見えたり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文さて衝別とは、かの国の余れるところを、鉏を衝き入れて、分け取るを云う。波多須須支は、穂と云わむ序に云えるなり。穂振別は、屠り分けるなり。獣の肉などを切り分かつを、屠ると云うと、同じ言にて、古事記、崇神天皇の御段に、其の軍士を斬り波布理と有るも同じ。かの余りある地を、鉏もて切り分かつるを云うなり。三身之綱は、身の字は写し誤りなるべし。これを真龍は、舟の字の誤りとして、みな然改めたれど、いかがとおぼゆ。万葉四の巻に、三相に搓れる糸と有るは、二すじをより合わせたる上に、今一すじをより合わせたるにて、強き糸なり。また書紀の孝徳の御巻に、三絞之綱と有るも然なり。されば搓の意に借りて自と書けるを、誤れるか。また会の誤りにて、三合にても有るべし。打挂は、屠り分けたる地へうちかけて、海の上を引きよするなり。霜黒葛は、黒葛の一種の名か、はた霜の置きたるつづらを云えるか、定かならず。聞々耶々爾は、誤字なるべし。聞も耶もこの書の中に、仮字に用いたる例無し。こはいと心得がたきを、しいて試みに云わば、閉々那々爾を誤れるか、そは今の世の言に、へならへならとも、ふならふならとも云う事ある、閉と布とは通う音にて、同じ事なり。ここは海の上を浪にゆられて行くさまを云えるなり。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文また出雲の郡に薗長三里云々、此れ則ち出雲と神門と二郡の堺なりと有るは、薗の長浜長さと有りけむが、長の字よりまがいて、長浜の二字の脱けたるにて、かの薗の松山と同所なるを、山は神門の郡に属き、浜は、出雲の郡に属けるにぞあらむ。北門とは、出雲の国の北面の海を云うなるべし。佐伎之国は、佐の字は、於の誤にて、隠岐の国にやあらむ、出雲より北の方にあたればなり。されどこはなお疑わし。そのよしは下に云うべし。所取与の与の字は、而の誤なり、上下なる例もて知るべし。自多久乃は、島根の郡に、多久の社また多久川あり。秋鹿の郡との堺なり。乃の字は、川の誤か、されど上の自去豆と有る下にも、この字有りて、去豆には川は見えざれば、ここも如何が有らむ。打絶与は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)与の字は、これも而の誤なり。狭田之国は、秋鹿の郡に、佐太川また佐太の水海など見ゆ、これなり。但しここは、秋鹿楯縫二郡の地を云えるなり。北門良波之国は、いまだ考え得ず。そもそも良理流礼呂を、言の頭に置ける例は無き事なれば、良の字は誤なるか。
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