玉勝間 / 十三の巻 漢ぶりの天神の祭,天皇を天に配と云ふ事
續紀に延曆六年十一月甲寅、祀天神於交野、其祭文曰、維延曆六年歲次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣諱、遣云云、敢昭告于昊天上帝、臣恭云云、高紹天皇配神作主尙饗。又曰維延曆六年云云、孝子皇帝臣諱、遣云云、敢昭告于高紹天皇、臣云云尙饗、文德實錄、齊衡三年十一月辛酉、遣云云等、向後田原山陵、告以配天之事。策曰、天皇大命、掛畏平城宮〓天下所知志、倭根子天皇御門齊申賜門止奏、今月廿五日、河內國交野乃原爾、昊天祭爲止志天、掛畏御門子主正定奉天、可祭事乎、畏出畏車手申賜久止奏。壬戌云云、帝自署其諱訖、執板北面拜天、乃遣云云、向河內國交野郡柏原野、設蘊習禮、甲子有事圓丘云云とあるは、から國ぶりの祭にして、皇國の意にあらず。
新字:続紀に延暦六年十一月甲寅、祀天神於交野、其祭文曰、維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣諱、遣云云、敢昭告于昊天上帝、臣恭云云、高紹天皇配神作主尚饗。又曰維延暦六年云云、孝子皇帝臣諱、遣云云、敢昭告于高紹天皇、臣云云尚饗、文徳実録、斉衡三年十一月辛酉、遣云云等、向後田原山陵、告以配天之事。策曰、天皇大命、掛畏平城宮〓天下所知志、倭根子天皇御門斉申賜門止奏、今月廿五日、河内国交野乃原爾、昊天祭為止志天、掛畏御門子主正定奉天、可祭事乎、畏出畏車手申賜久止奏。壬戌云云、帝自署其諱訖、執板北面拝天、乃遣云云、向河内国交野郡柏原野、設蘊習礼、甲子有事円丘云云とあるは、から国ぶりの祭にして、皇国の意にあらず。
書き下し
続紀に延暦六年十一月甲寅、天神を交野に祀る、その祭文に曰く、維れ延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣諱、云云を遣わし、敢えて昭らかに昊天上帝に告ぐ、臣恭しく云云、高紹天皇を配神として主と作す尚わくは饗けよ。又曰く維れ延暦六年云云、孝子皇帝臣諱、云云を遣わし、敢えて昭らかに高紹天皇に告ぐ、臣云云尚わくは饗けよ、文徳実録、斉衡三年十一月辛酉、云云等を遣わし、後田原山陵に向かわしめ、告ぐるに配天の事を以てす。策に曰く、天皇が大命に坐せ、掛けまくも畏き平城の宮に天の下知らしめしし、倭根子天皇の御門に申し賜えと申さく、今月廿五日、河内国交野の原に、昊天祭せむとして、掛けまくも畏き御門を主と定め奉りて、祭るべき事を、畏み畏みも申し賜わくと申す。壬戌云云、帝自らその諱を署し訖り、板を執りて北面して天を拝す、乃ち云云を遣わし、河内国交野郡柏原野に向かわしめ、蘊を設けて礼を習う、甲子円丘に事有り云云とあるは、から国ぶりの祭にして、皇国の意にあらず。
現代語訳
『続日本紀』に、「延暦六年十一月甲寅、天神を交野で祀った。その祭文に言う、『延暦六年、歳は丁卯、十一月甲寅、天子の位を継いだ臣某(桓武天皇)が、某を遣わして、謹んで昊天上帝に申し上げる。臣は恭しく云々、高紹天皇(光仁天皇)を配神として主とする。どうか供物をお受けください』。また言う、『延暦六年云々、孝子である皇帝臣某が、某を遣わして、謹んで高紹天皇に申し上げる。臣云々、どうか供物をお受けください』」とある。『文徳実録』に、「斉衡三年十一月辛酉、某らを遣わして後田原山陵に向かわせ、天に配して祀ることを告げた。その策文(宣命)に言う、『天皇の大命として、畏れ多くも平城の宮で天下をお治めになった倭根子天皇(光仁天皇)の御陵に申し上げよと申す。今月二十五日、河内国交野の原で昊天の祭をしようとして、畏れ多い天皇を主とお定め申し上げて祭るべきことを、畏み畏み申し上げる』。壬戌云々、帝は自らその名を署名し終え、笏を執って北を向いて天を拝した。そこで某を遣わして河内国交野郡柏原野に向かわせ、祭場を設けて礼を習わせた。甲子に円丘で祭事があった云々」とあるのは、中国風の祭りであって、皇国の本来の意ではない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 牛を殺して漢神を祭りし事続紀に、延暦十年九月、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓の、牛を殺して用いて漢神を祭るを断つと見えたる、漢神は、いかなる神にか有りけむ。書紀皇極天皇の元年にも、祝部どもの教えしによりて、牛馬を殺して、社々の神を祭りて、雨を祈りしこと見えたり。牛馬を殺して、神を祭れるは、もろこしの俗にならえると、谷川の士清も云えりき。
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『玉勝間』一の巻 又漢国にも、神あることを、むげに知らざるにもあらず、尊みもし祀りもすめるは、まことの伝えの、かたはしは有りしならむ。然れどもこの天地をはじめ給い、国土万の物を造りなし給い、人の道をも万の事をも始め給い、世の中のよろづの事をしり行い給う神たちのまします事をば、すべてえ知らずして、これらの重く大きなる事には、ただ天をのみ云いて、ただかたわらなる小さき事にのみ、神をば云いて、この世を照らし給う日の大御神をすら、かろがろしく、ことなる事も無き物の如くして、この神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだに知らざるは、いとあさましきわざなりかし。
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『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞小右記の、長和五年のところに云わく、御即位の後、天下の諸神に奉幣する祝詞。天皇が詔旨と、皇神等の広前に、称辞言え奉り申し給わく、高天原に神留まり坐す、皇親神漏伎神漏美の命以ちて、事寄さし給える、豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座の次次、去る四月廿八日より食国天下の政を聞こし食すに依りて、その状を申し給うと、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差し使わして、礼代の幣帛を捧げ持たしめ奉り給う、天皇が御命を、申し給わくと申す。今案ずるに、件の文は祝詞なり、宣命に非ず、とあり。称辞言奉申給は、言の字は竟の誤りなるべし。言の字あまりて、竟と云うことたらざればなり。また申と云う言もあまれり、奉申かとも思えど、それも古には例なき事なり。さてまた次次も聞こえず、次隨隨など有りけむが、字の落ちたるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのわで、ことわり聞こえがたき事もおおかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなおざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。
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『直毘霊』大御心を心として古えの大御代には、下が下まで、唯天皇の大御心を心として。天皇の思ほしめす御心のまにまに仕え奉りて、己が私心は露なかりき。ひたぶるに大命を畏み敬い服いて、大御慈しみの御蔭に隠ろいて、おのもおのも祖神を斎き祭りつつ天皇の大御皇祖神の御前を拝み祭り坐すがごとく、臣連八十伴緒、天の下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天の下のために、天つ神国つ神諸をも祭り坐すが如く、下なる人どもも、事に触れては、福を求むと、善き神に請い祈ぎ、禍を逃れんと、悪しき神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢れもあれば、祓い清むるなど、皆人の情にして、必ず有るべきわざなり、然るを心だにまことの道に適いなば、など言うめる筋は、仏の教え儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚く背けり、又異国には、神を祭るにも、唯理を先にして、様々議論あり、淫祀など言いて、戒むることもある、皆さかしらなり、凡て神は、仏などいうなる物の趣とは異にして、善き神のみにはあらず、悪しきも有りて、心も所行も、
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