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玉勝間 / 二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事

同じ記に云く、永觀三年二月十三日戊子、巳時許參院、今日御子日也、御御車令向紫野給、左右丞相大納言爲光朝光(大將、)濟時(大將、)中納言文範(途中布衣)忠清顯光重光保光、右近權中將義懷(散三位布衣、)參議忠〓(右衞門督布衣)公季(布衣、)右近中將道隆(散三位布衣)、公卿皆騎馬、着直衣着下重、以纓柏押、左大臣追候野口、太上皇於野口、乘御御馬、右衞門尉惟風左馬允親平等、爲御馬鎭、殿上侍臣皆悉布衣、京路野邊、見物車如□、即御御在所、其御裝束、立幄數板敷、又立簾臺懸御簾、其中立輕幄(南向)其東爲公卿座、(南向)其幄東又立幅、(子午妻)爲侍臣座、御前四方立屏變、御前植小松、御在所帳後立膳所幅、御厨子所供御膳、(懸盤)陪膳權中納言顯光、(顯光重光保光着布袴次居公卿及侍臣衝重、一巡之後、大納言爲光以下侍從等、起坐執籠物十捧及折櫃四本、列御前、左大臣於御前問日、各稱名云云、(左大臣所儲也、)次居檜破子於御前、左大將并正〓懷遠時通下官等所調備也、召和歌人於御前、(先ッ給座、)兼盛朝臣、時文朝臣、元輔眞人、重之朝臣、曾禰善正、中原重節等也、公卿達稱無指召、追立善正重節等、時通日、善正已在召人內云云、召兼盛、左大臣仰可獻和歌題之由、即獻日於紫野翫子日松者以兼盛令獻和歌序、

新字:同じ記に云く、永観三年二月十三日戊子、巳時許参院、今日御子日也、御御車令向紫野給、左右丞相大納言為光朝光(大将、)済時(大将、)中納言文範(途中布衣)忠清顕光重光保光、右近権中将義懐(散三位布衣、)参議忠〓(右衛門督布衣)公季(布衣、)右近中将道隆(散三位布衣)、公卿皆騎馬、着直衣着下重、以纓柏押、左大臣追候野口、太上皇於野口、乗御御馬、右衛門尉惟風左馬允親平等、為御馬鎮、殿上侍臣皆悉布衣、京路野辺、見物車如□、即御御在所、其御装束、立幄数板敷、又立簾台懸御簾、其中立軽幄(南向)其東為公卿座、(南向)其幄東又立幅、(子午妻)為侍臣座、御前四方立屏変、御前植小松、御在所帳後立膳所幅、御厨子所供御膳、(懸盤)陪膳権中納言顕光、(顕光重光保光着布袴次居公卿及侍臣衝重、一巡之後、大納言為光以下侍従等、起坐執籠物十捧及折櫃四本、列御前、左大臣於御前問日、各称名云云、(左大臣所儲也、)次居檜破子於御前、左大将并正〓懐遠時通下官等所調備也、召和歌人於御前、(先ッ給座、)兼盛朝臣、時文朝臣、元輔真人、重之朝臣、曽祢善正、中原重節等也、公卿達称無指召、追立善正重節等、時通日、善正已在召人内云云、召兼盛、左大臣仰可献和歌題之由、即献日於紫野翫子日松者以兼盛令献和歌序、

書き下し

同じ記に云わく、永観三年二月十三日戊子、巳の時ばかりに院に参る、今日は御子の日なり、御車に御して紫野に向かわしめ給う、左右丞相、大納言為光・朝光(大将、)済時(大将、)中納言文範(途中布衣)忠清・顕光・重光・保光、右近権中将義懐(散三位布衣、)参議忠〓(右衛門督布衣)公季(布衣、)右近中将道隆(散三位布衣)、公卿皆騎馬にて、直衣を着し下重を着し、纓を以て柏に押す、左大臣追って野口に候う、太上皇野口に於て、御馬に乗り御す、右衛門尉惟風・左馬允親平等、御馬の鎮めと為る、殿上の侍臣皆悉く布衣なり、京の路・野辺に、見物の車□の如し、即ち御在所に御す、其の御装束、幄を立て板敷を敷き、また簾台を立てて御簾を懸け、其の中に軽幄を立つ(南向き)其の東を公卿の座と為す、(南向き)其の幄の東にまた幅を立て、(子午の妻)侍臣の座と為す、御前の四方に屏変を立て、御前に小松を植う、御在所の帳の後に膳所の幅を立つ、御厨子所御膳を供す、(懸盤)陪膳は権中納言顕光、(顕光・重光・保光は布袴を着す、次に公卿及び侍臣に衝重を居う、一巡の後、大納言為光以下侍従等、座を起ちて籠物十捧及び折櫃四本を執り、御前に列す、左大臣御前に於て問いて曰く、各名を称す云云、(左大臣の儲くる所なり、)次に檜破子を御前に居う、左大将并びに正〓・懐遠・時通・下官等の調え備うる所なり、和歌の人を御前に召す、(先ず座を給う、)兼盛朝臣・時文朝臣・元輔真人・重之朝臣・曾禰善正・中原重節等なり、公卿達指したる召し無しと称して、善正・重節等を追い立つ、時通曰く、善正は已に召人の内に在り云云、兼盛を召し、左大臣和歌の題を献ずべき由を仰す、即ち献じて曰く、紫野に於て子の日の松を翫ぶ、兼盛を以て和歌の序を献ぜしむ、

現代語訳

同じ日記にこうある。「永観三年(985)二月十三日戊子、巳の刻(午前十時)ごろ院に参った。今日は御子の日の遊びである。上皇は御車に乗って紫野へお向かいになった。左右の大臣、大納言の為光・朝光(大将)・済時(大将)、中納言の文範(途中から平服)・忠清・顕光・重光・保光、右近権中将の義懐(散三位、平服)、参議の忠〓(右衛門督、平服)・公季(平服)、右近中将の道隆(散三位、平服)が供をし、公卿はみな騎馬で、直衣に下襲を着け、冠の纓を柏挟みにして押さえていた。左大臣は後から野の入口に控えた。太上皇は野の入口で御馬にお乗り換えになり、右衛門尉の惟風と左馬允の親平らが御馬の口取りを務めた。殿上の侍臣はみな残らず平服であった。都の道にも野辺にも、見物の車が□のように並んだ。やがて御座所にお入りになった。その設けは、幄を立てて板敷を敷き、また簾台を立てて御簾を懸け、その中に軽い幄を立てる(南向き)。その東を公卿の座とする(南向き)。その幄の東にまた幄を立てて(南北に妻を向け)侍臣の座とする。御前の四方には屏風を立て、御前に小松を植えた。御座所の帳の後ろには膳所の幄を立てた。御厨子所が御膳を供し(懸盤)、陪膳は権中納言顕光(顕光・重光・保光は布袴を着ける)。次に公卿と侍臣に衝重を据える。一巡した後、大納言為光以下、侍従らが座を立ち、籠物十捧と折櫃四本を捧げて御前に並べた。左大臣が御前で尋ねると、それぞれ名を名乗ったという(これは左大臣が用意したものである)。次に檜の破子を御前に据える。これは左大将と正〓・懐遠・時通、それに私(実資)らが調えたものである。和歌の人々を御前に召した(まず座を与える)。兼盛朝臣・時文朝臣・元輔真人・重之朝臣・曾禰善正・中原重節らである。公卿たちは、これという召しもないのにと言って、善正・重節らを追い立てた。時通が、善正はすでに召人の内に入っていると言ったという。兼盛を召し、左大臣が和歌の題を献ずるよう命じた。そこで献じた題は「紫野において子の日の松を翫ぶ」であった。兼盛に和歌の序を献じさせた」。

解説

円融上皇が紫野で催した子の日の遊びを、『小右記』から長く写した段である。子の日の遊びは、正月の初子の日に野に出て小松を引き、長寿を祝う行事で、ここでは二月に上皇が公卿をしたがえて盛大に行った。騎馬の公卿の装い、幄や屏風の立て方、御膳の運び、檜破子の用意まで、実資は見たままに記している。和歌の人として平兼盛・清原元輔・源重之らの名が並び、召しもないのに座に連なった者が追い立てられたことまで書き留めているのが生々しい。曾禰善正は、この日に追い出された逸話で知られる歌人曾禰好忠を指すとみられる。宣長がこうした記事を抜き書きしたのは、王朝の行事の実際の姿を、物語ではなく当事者の日記から確かめたかったからであろう。

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