玉勝間 / 十二の巻 いにしへ神事を重くせられし事
書紀天智天皇御卷に、九年三月、於山御井傍、敷諸神座、而班幣帛、中臣金連宣祝詞、と見えたり。そのかみ中臣の氏人は、ここら有りつらむに、金ノ連にしも、祝詞を宣しめ給へるをもて、古へ神事を、いみしく重くせられしほどを知べし。此ノ連公此時位は、大錦上にて、正四位上にあたれども、そのかみ第二の臣にて、明年正月に、右大臣に任ぜられて、いと重き人にぞ有ける。そもそも此天皇は、殊にから御心におはしまして、萬づにもろこしぶりをならひ移されたる御世なりしかども、なほ神事のやむことなかりし事は、斯くぞ有し。
新字:書紀天智天皇御巻に、九年三月、於山御井傍、敷諸神座、而班幣帛、中臣金連宣祝詞、と見えたり。そのかみ中臣の氏人は、ここら有りつらむに、金ノ連にしも、祝詞を宣しめ給へるをもて、古へ神事を、いみしく重くせられしほどを知べし。此ノ連公此時位は、大錦上にて、正四位上にあたれども、そのかみ第二の臣にて、明年正月に、右大臣に任ぜられて、いと重き人にぞ有ける。そもそも此天皇は、殊にから御心におはしまして、万づにもろこしぶりをならひ移されたる御世なりしかども、なほ神事のやむことなかりし事は、斯くぞ有し。
書き下し
書紀天智天皇の御巻に、九年三月、山の御井の傍らに於て、諸神の座を敷きて、幣帛を班つ、中臣金の連祝詞を宣る、と見えたり。そのかみ中臣の氏人は、ここら有りつらむに、金の連にしも、祝詞を宣らしめ給えるをもて、古え神事を、いみしく重くせられしほどを知るべし。この連公この時位は、大錦上にて、正四位上にあたれども、そのかみ第二の臣にて、明年正月に、右大臣に任ぜられて、いと重き人にぞ有りける。そもそもこの天皇は、殊にから御心におわしまして、万づにもろこしぶりをならい移されたる御世なりしかども、なお神事のやんごとなかりし事は、かくぞ有りし。
現代語訳
日本書紀の天智天皇の巻に、「九年(670)三月、山の御井のほとりに諸神の座を設けて幣帛を分かち、中臣金連が祝詞を読み上げた」と見えている。当時、中臣氏の人はたくさんいただろうに、ほかならぬ金連に祝詞を宣らせなさったことから、昔は神事をたいそう重んじられたほどを知るべきである。この連公のこの時の位は大錦上で、正四位上にあたるけれども、当時は第二の臣で、翌年正月に右大臣に任ぜられた、たいへん重い人であった。そもそもこの天皇は、とりわけ漢風のお心であられて、何事も中国風を学び移された御代であったけれども、それでも神事が重んじられたことは、このようであった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞小右記の、長和五年のところに云わく、御即位の後、天下の諸神に奉幣する祝詞。天皇が詔旨と、皇神等の広前に、称辞言え奉り申し給わく、高天原に神留まり坐す、皇親神漏伎神漏美の命以ちて、事寄さし給える、豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座の次次、去る四月廿八日より食国天下の政を聞こし食すに依りて、その状を申し給うと、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差し使わして、礼代の幣帛を捧げ持たしめ奉り給う、天皇が御命を、申し給わくと申す。今案ずるに、件の文は祝詞なり、宣命に非ず、とあり。称辞言奉申給は、言の字は竟の誤りなるべし。言の字あまりて、竟と云うことたらざればなり。また申と云う言もあまれり、奉申かとも思えど、それも古には例なき事なり。さてまた次次も聞こえず、次隨隨など有りけむが、字の落ちたるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのわで、ことわり聞こえがたき事もおおかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなおざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。
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『玉勝間』六の巻 天の下の政神事をさきとせられし事職員令に、神祇官を、もろもろの官のはじめに、まず挙げて、それが次に、太政官を挙げられたり。延喜式も、同じくはじめに神祇式、次に太政官式なり、後の世ながら、北畠の准后の職原抄も、令にならいて、ついでられたり。そもそもよろずの事、さばかり唐の国ぶりをならい給えりし御世にしも、かく有りしは、さすがに神の御国のしるしにて、いともいとも尊く、めでたきわざになむ有りける。世の中は何につけても、この心ばえこそ有らまほしけれ。
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