玉勝間 / 十三の巻 東宮雅院
文德實錄に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩、于時皇太子云云、献天子神璽寶劍、符節鈴印等、須臾駕輦車移御東宮雅院云云。四月戊午、帝自雅院移御中殿。三代實錄に、貞觀元年六月廿二日云云、於東宮雅院始修法、云云、七月云云、是月雅院櫻樹華云云。同五年五月廿二日、天皇御雅院、召見神泉苑御靈會、舞童雅樂寮奏音樂。
新字:文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩、于時皇太子云云、献天子神璽宝剣、符節鈴印等、須臾駕輦車移御東宮雅院云云。四月戊午、帝自雅院移御中殿。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、於東宮雅院始修法、云云、七月云云、是月雅院桜樹華云云。同五年五月廿二日、天皇御雅院、召見神泉苑御霊会、舞童雅楽寮奏音楽。
書き下し
文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
現代語訳
『文徳実録』に、「嘉祥三年三月己亥、仁明天皇が崩御された。その時、皇太子に云々、天子の神璽・宝剣、符節・鈴・印などを献じた。まもなく輦車に乗って東宮の雅院にお移りになった云々。四月戊午、帝は雅院から中殿(清涼殿)にお移りになった」とある。『三代実録』に、「貞観元年六月二十二日云々、東宮の雅院で初めて修法を行った云々。七月云々、この月、雅院の桜の木が花を咲かせた云々」、「同五年五月二十二日、天皇は雅院にお出ましになり、神泉苑の御霊会の人々を召してご覧になった。舞童と雅楽寮が音楽を演奏した」とある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 深草ノ天皇の御事嘉祥三年三月廿一日、仁明天皇崩れ坐しぬ。文徳天皇実録三に、仁寿元年(嘉祥四年なり)三月癸酉朔壬午、右大臣藤原朝臣良房、東都の第に於て、知行の名僧を延屈し、先皇の奉為に、法華経を講ず、往年先皇大臣の家園の桜樹甚だ美なりと聞くこと有り、戯れに大臣に許すに、明年の春を以て、その花を翫ぶこと有らんと、俄かにして仙駕化し去りて、遊賞を遂げず、春来たりて花発くに属りて、大臣恨みて曰く、先皇の期したまいし所の春は、今日是れなり、春来たりて期に依れども、仙去りて帰らず、花は是にして人は非なり、悲しみに堪うべからず、と、道俗の会する者、これが為に涕を流さざるは莫く、公卿大夫、或いは詩を賦して懐いを述べ、或いは歌に和して逝けるを歎く。
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『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘歴代編年集成に云う、南殿の桜樹は、本これ梅樹なり。桓武天皇遷都の時、植えらるる所なり。而るに承和年中に及びて枯れ失す。仍りて仁明天皇改め植えらるるなり。今度の焼亡に焼失し畢んぬ。内裏を造るの時、李部王(重明親王)の家の桜樹を移さるる所なり。件の樹は、本吉野山の桜と云云。但し拾遺の公忠朝臣の歌の詞に、延喜の御時、南殿の花を見ると云云。然れば天徳以前も桜樹か。梅桜の事、時にこれを決すべし。橘の樹は、本より生い託する所なり。遷都以前、この地は橘大夫の家の跡なりと云云。南殿の樹の事、番記録に云う、村上の御宇、天徳三年十二月七日、南殿の坤の角に、新たに橘の樹一本を移し栽う(高さ一丈二尺)。件の樹は、弾正尹親王の東三条の家の樹なり。勅定に依りてこれを奉る。右近将監已下これを掘る。或る記に云う、かの樹の在所は、橘大夫と称する者の家の後園なり。遷都の時、件の後園に橘有り、即ち南殿の前、以て賞翫す。その後回禄の後、かの東三条の樹を栽えらると云云。小一条左大臣の記に云う、橘の本主は、秦保国なり、と見えたり。今度焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のことなり。大槐秘抄に云わく、南殿の橘の木は、この京に、いまだ内裏たてられ候わざりけるさき、人の家の候いけるが木にて候いければ、きられずしてなん候いける。殿上人は、南殿のおおゆかにて、枝ながらたちばな食いなどしけりと申し候うは、それはまことにや候いけん。木は一定のふる木になんさぶらいける。ついでに、同書に云わく、今の上達部は、封戸すこしも得候わず。
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『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
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『玉勝間』一の巻 東宮をたがひにゆづりてこの里に、これも宣長がおしえ子に、須賀の直見と云いしは、いときなかりし程より、唐やまとの書を好み読みて、いとよく学びて、歌をも善く詠み、物のさとりもいと賢こかりけるを、まだ四十にもならで、早くみまかりぬるは、いとあたらしきおのこになむ有りける。それが云えりしは、古今集の序の細註に、東宮を互いにゆずりてと有るは、誰れもいと心得ぬ云いざまなる。こは東宮とにぞ有りけむを、と文字とを文字とよく似たれば、見誤りて書きつたえたる者なるべし。宇治の稚郎子を指して、東宮とは申せるなりとぞ云えりし。この考えにてよく聞こえたり。
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『玉勝間』一の巻 天皇礼服御冠のさだ同記に云う、仁治三年三月十日、御即位の礼服の御覧、去る八日なり、而るに御冠破損し、実無し、今日内々なお沙汰有るべしと云う、御冠堅固に実無し、金銅・珠玉の類は、先年盗人の為に盗み取らるるか、一切見えず、只御冠の羅少々許り相残り、また珠玉少分落ち残る、其の正躰に及ばざるの由、云々、仍て其の由を申す、此の上は治め難き事なり、東大寺の宝蔵に天子の御冠二額相残るか、若し模すべくば、召し出さるべきか、年序久しく隔たり慥かに覚悟せず、然れども大旨は相似たるかの由覚ゆる所なり、云々、但し佐保朝廷(聖武か)の礼冠の図、東大寺に御納めの御冠の納物か、同じく之を下さるるの間、燈下に於いて之を見る、イトモ覚悟せざるの由申す所なり、前内府帰り出でて仰せて云う、東大寺の御冠の事、思し食し寄らざるの処、今申さしむる旨、尤も感じ思し食す所なり、十四日、伝え聞く、一昨日右少弁時継拝賀を申し、即ち東大寺に向かうと云う、今朝已に上洛すと云う、御冠到来す、但し太上天皇の御冠、并びに前帝の御冠、内裏に取り入れらるべからざるか、云々、就中太上天皇の御冠を以て本様と為し、已に入道相国の許に遣わさると云う、此の条殊に驚き聞く、云々、残る所の御冠、また数頭有り、之を取り出して見給わる、また礼服の御裳の事仰せ出さる、即ち之を取り出さる、残る所の御裳、内蔵寮を召し遣わし、暫く祗候して見るべきの由仰せらる、然れども蔵人佐云う、今に於いては、女帝の礼服、前皇后・太子の礼服、童帝はまた短小の礼服許りなり、見るに及ばざるかと云う、十七日、云々御冠已に出で来たり了んぬ、只今〓せしむと云う。
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