玉勝間 / 十二の巻 深草ノ天皇の御事
嘉祥三年三月廿一日、仁明天皇崩坐ぬ。文德天皇實錄三に、仁壽元年(嘉祥四年なり)三月癸酉朔壬午、右大臣藤原朝臣良房、於東都第、延屈知行名僧、奉爲先皇、講法華經、往年先皇有聞大臣家園櫻樹甚美、戯許大臣、以明年之春、有翫其花、俄而仙駕化去、不遂遊賞、屬春來花發、大臣恨日、先皇所期之春、今日是也、春來依期、仙去不歸、花是人非、不可堪悲、道俗會者、莫不爲之流涕、公卿大夫、或賦詩述懷、或和歌歎逝。
新字:嘉祥三年三月廿一日、仁明天皇崩坐ぬ。文徳天皇実録三に、仁寿元年(嘉祥四年なり)三月癸酉朔壬午、右大臣藤原朝臣良房、於東都第、延屈知行名僧、奉為先皇、講法華経、往年先皇有聞大臣家園桜樹甚美、戯許大臣、以明年之春、有翫其花、俄而仙駕化去、不遂遊賞、属春来花発、大臣恨日、先皇所期之春、今日是也、春来依期、仙去不帰、花是人非、不可堪悲、道俗会者、莫不為之流涕、公卿大夫、或賦詩述懐、或和歌嘆逝。
書き下し
嘉祥三年三月廿一日、仁明天皇崩れ坐しぬ。文徳天皇実録三に、仁寿元年(嘉祥四年なり)三月癸酉朔壬午、右大臣藤原朝臣良房、東都の第に於て、知行の名僧を延屈し、先皇の奉為に、法華経を講ず、往年先皇大臣の家園の桜樹甚だ美なりと聞くこと有り、戯れに大臣に許すに、明年の春を以て、その花を翫ぶこと有らんと、俄かにして仙駕化し去りて、遊賞を遂げず、春来たりて花発くに属りて、大臣恨みて曰く、先皇の期したまいし所の春は、今日是れなり、春来たりて期に依れども、仙去りて帰らず、花は是にして人は非なり、悲しみに堪うべからず、と、道俗の会する者、これが為に涕を流さざるは莫く、公卿大夫、或いは詩を賦して懐いを述べ、或いは歌に和して逝けるを歎く。
現代語訳
嘉祥三年(850)三月二十一日、仁明天皇が崩御された。『文徳天皇実録』巻三に「仁寿元年(嘉祥四年である)三月壬午、右大臣藤原朝臣良房が、東京(ひがしのきょう)の邸に、学徳ある名僧を招き、先帝のために法華経を講じた。以前、先帝は大臣の家の庭の桜がたいへん美しいとお聞きになり、戯れに大臣に『来年の春にその花を楽しもう』とお約束になったが、にわかに崩御されて、花見を果たされなかった。春が来て花が咲いたので、大臣は恨んで言った。『先帝がお約束になった春は今日である。春は約束どおりに来たが、先帝は去ってお帰りにならない。花は変わらず、人はもういない。悲しみに堪えられない』。集まった僧俗で、そのために涙を流さない者はなく、公卿や大夫たちは、ある者は詩を作って思いを述べ、ある者は歌を唱和して逝去を嘆いた」とある。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
-
『玉勝間』十三の巻 芳宜ノ花の宴続後紀に、承和元年八月己卯朔庚寅、上清涼殿に曲宴す、号して芳宜花講と曰う、近習以下近衛将監に至るまで禄を賜うこと、差有り。また同十一年八月辛巳朔、天皇紫宸殿に御し、芳宜の花を覧て、老臣を宴す。皆復古の歎有り、日暮れて、五位已上に衣被を賜うこと差有り。
-
『神皇正統記』巻四 第五十四代 仁明天皇第五十四代、第三十世、仁明天皇。諱は正良、深草の帝とも申。嵯峨第二の子。御母皇太后橘の嘉智子、贈太政大臣清友女也。癸丑年即位、甲寅に改元。此天皇は西院の御門の猶子の儀ましましければ、朝覲も両皇にせさせ給。或時は両皇同所にして覲礼もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使もつねにあり。帰朝の後、建礼門の前に、彼国のたから物の市をたてゝ、群臣にたまはすることも有き。律令は文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おましましき。
-
『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘歴代編年集成に云う、南殿の桜樹は、本これ梅樹なり。桓武天皇遷都の時、植えらるる所なり。而るに承和年中に及びて枯れ失す。仍りて仁明天皇改め植えらるるなり。今度の焼亡に焼失し畢んぬ。内裏を造るの時、李部王(重明親王)の家の桜樹を移さるる所なり。件の樹は、本吉野山の桜と云云。但し拾遺の公忠朝臣の歌の詞に、延喜の御時、南殿の花を見ると云云。然れば天徳以前も桜樹か。梅桜の事、時にこれを決すべし。橘の樹は、本より生い託する所なり。遷都以前、この地は橘大夫の家の跡なりと云云。南殿の樹の事、番記録に云う、村上の御宇、天徳三年十二月七日、南殿の坤の角に、新たに橘の樹一本を移し栽う(高さ一丈二尺)。件の樹は、弾正尹親王の東三条の家の樹なり。勅定に依りてこれを奉る。右近将監已下これを掘る。或る記に云う、かの樹の在所は、橘大夫と称する者の家の後園なり。遷都の時、件の後園に橘有り、即ち南殿の前、以て賞翫す。その後回禄の後、かの東三条の樹を栽えらると云云。小一条左大臣の記に云う、橘の本主は、秦保国なり、と見えたり。今度焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のことなり。大槐秘抄に云わく、南殿の橘の木は、この京に、いまだ内裏たてられ候わざりけるさき、人の家の候いけるが木にて候いければ、きられずしてなん候いける。殿上人は、南殿のおおゆかにて、枝ながらたちばな食いなどしけりと申し候うは、それはまことにや候いけん。木は一定のふる木になんさぶらいける。ついでに、同書に云わく、今の上達部は、封戸すこしも得候わず。
-
『玉勝間』十三の巻 花の宴類聚国史に、弘仁三年二月辛丑、神泉苑に幸し、花樹を覧て、文人に命じて詩を賦せしめ、綿を賜うこと差有り。花宴の節、此に始まるまた同六年二月庚午、神泉苑に幸して花宴す。文人に命じて詩を賦せしめ、侍臣及び文人に綿を賜うこと差有り。
-
『玉勝間』六の巻 花のさだめ花はさくら。桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐうべき物も無く、うき世のものとも思われず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり。大かた山ざくらと云う中にも、しなじなの有りて、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかわれる処有りて、またく同じきは無きようなり。また今の世に、桐がやつ八重一重など云うも、ようかわりて、いとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、あおやかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空清くはれたる日、日影のさすかたより見たるは、においこよなくて、おなじ花とも覚えぬまでなん。朝日はさらなり、夕ばえも。梅は紅梅、ひらけさしたる程ぞ、いとめでたきを、盛りになるままに、ようようしらけゆきて、見所無くなるこそ、いとくちおしけれ。さくらの咲ける頃までも、散る事知らで、むげに匂い無く、ねびれしぼみて、残りたるを見れば、げに有りて世の中は、何事も皆かくこそと、見る春ごとに、思い知らるかし。白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る