玉勝間 / 十三の巻 又八十島祭
文德實錄に、嘉祥三年九月乙亥朔壬午、遣宮主正六位下占部雄貞、神琴師正六位上菅生朝臣末繼、典侍正五位下藤原朝臣泉子御巫無位榎本連淨子等、向攝津國八十島。
新字:文徳実録に、嘉祥三年九月乙亥朔壬午、遣宮主正六位下占部雄貞、神琴師正六位上菅生朝臣末継、典侍正五位下藤原朝臣泉子御巫無位榎本連浄子等、向摂津国八十島。
書き下し
文徳実録に、嘉祥三年九月乙亥朔壬午、宮主正六位下占部雄貞、神琴師正六位上菅生朝臣末継、典侍正五位下藤原朝臣泉子御巫無位榎本連浄子等を遣わし、摂津国の八十島に向かわしむ。
現代語訳
『文徳実録』に、「嘉祥三年九月八日、宮主正六位下占部雄貞、神琴師正六位上菅生朝臣末継、典侍正五位下藤原朝臣泉子、御巫無位榎本連浄子らを遣わして、摂津国の八十島に向かわせた」とある。
解説
前に取り上げた八十島祭について、より古い記録を補った段である。文徳天皇が即位した嘉祥三年(850)、宮主・神琴師・典侍・御巫からなる一行が摂津国の八十島に遣わされた。宮主は卜部氏の神職、神琴師は祭りで琴を奏でる者、御巫は神に仕える巫女で、典侍は天皇の乳母などが務める女官である。八十島祭の使いの顔ぶれが、この記事によって具体的に分かる。これは正史に見える八十島祭の最も早い例の一つとされる。宣長は、先に挙げた康治二年の記事と合わせて、この祭りの古い姿を示そうとしたのであろう。記事を補い合わせて一つの儀礼の全体像を組み立てていく、宣長の考証の進め方がうかがえる。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 八十嶋ノ祭の使同記に、同年十一月廿八日庚辰云云、今日、八十島祭の使を立てらる、御乳母典侍藤原家子、(故家政卿の女、〓隆卿の室なり)、行装の儀、世以て壮観と為す、蔵人頭右近中将藤経宗、騎馬にてこれを送る、目縁たるに依るなり。蔵人左近将監藤隆憲、勅使として発向す、典侍唐車を用うと云云、子族等皆前駈す、布衣なり。
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『玉勝間』八の巻 祭に臨みて神主を定むる事左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。
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『玉勝間』十二の巻 八人のやをとめ俗に八人のやおとめと云うこと有り。土御門の内大臣通親公の、厳島御幸の記に、御神楽のやおとめ八人と見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 諸国小社の祢宜祝の事貞観十年六月廿八日の格に、天長二年十二月甲子の符に偁く、承前の例、諸国の小社、或いは祝を置きて禰宜無く、或いは禰宜祝並べ置く、旧例紛謬し、准拠定まる無し。加之或る国は独り女祝を置きて、永くその祭を主らしむ。右大臣宣旨す、今より以後、禰宜祝並べ置く社は、女を以て禰宜と為せ。但し先に置く者は、その身を終えしめよ者また三代実録に、貞観七年五月廿五日、是の日制す。五畿七道の諸神社の祝部、白丁を補するを停む。八位已上、及び年六十已上の人を以てこれに充てよ。先に是れ置く者は、その身を終えしめ、今より以後、立てて恒例と為せ。
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『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
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